東京言語研究所

ブックメール倶楽部

オンライン状況
5 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが 言語学コラム を参照しています。)

現在の利用者: 5
もっと...

RSS 配信中.......

  

規範文法のみで教えることが正しいのか

南 雅彦(サンフランシスコ州立大学教授)

私は、学部生に日本語を教えるだけでなく、大学院レベルの認知意味論・語用論・言語地理学・方言地理学などの言語学諸分野と文化人類学や異文化心理学を含む『社会言語学セミナー』を担当し、また言語心理学・応用言語学・言語教育学などが中心の『第2言語習得セミナー』も教えています。こうした分野で用いられる社会言語学的アプローチでは観察的立場に立った記述文法(descriptive grammar)が中心で、教室で文法を教える際の規範文法(prescriptive grammar)とはその方向性を異にしています。

日本語における存在表現の「いる・ある」の用法は、こうした記述文法と規範文法の方向性の相違を説明する好例です。日本語教育にたずさわっていらっしゃる方は良くご存じだと思いますが、日本語学習者を対象とした教科書の説明、すなわち、規範文法に従えば、「存在するものが人・動物のような生き物(有情)なのか、それとも無生物(非情)かで、『いる・ある』のどちらを選択するかを決定する」ということになります。でも、日本語母語話者なら誰でも、この説明では必ずしも十分でないことは感覚的にわかっています。たとえば、タクシーの運転手と乗客の会話を想定してみましょう。「運転手さん、もっと急いでください!」と叫ぶ乗客に対して、「無理ですよ。後ろを見てください。パトカーがいるんです!」と運転手が答える場合はどうでしょうか。また、時事記事で「核搭載艦はいない」と題した記事はどうでしょうか。私はこれまで日本語に‘ぜんぜん’触れたことがないような初心者を対象としたクラスを定期的に担当していますが、こうした実際の「いる・ある」の用法をどの程度まで教えて良いものか、‘ぜんぜん’むずかしいです。この問題はとても‘悩ましいです’。

上記では、「ぜんぜん」を最初は「ぜんぜん触れたことがない」という否定文、その次は「ぜんぜんむずかしいです」と肯定文で用いました。この「ぜんぜんむずかしいです」ばかりでなく、「悩ましいです」を使用しますと、「日本語を教えているくせに、まちがっているじゃないか!」「若者ことばみたいじゃないか!」と日本語教育にたずさわっていらっしゃる方からはお叱りを受けそうなのですが、古語表現としては、こうした使用はきわめて正しいのです。たとえば、「悩ましい」は元来「悩みが多い」という意味の「なやま・し」で、この用法はすでに『日本書紀』に登場しています。「気分が悪い」という意味では「君は心地もいとなやましきに、雨すこしうちそゝぎ、山風ひやゝかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞ゆ」(若紫)とあるように『源氏物語』にも登場しています。官能的であるという意味での「悩ましい」は、歴史的には最後に登場してきた意味であると考えられます。古代・中世では異性を見て仮に心が乱れてもなかなか表現できなかったものが、近代以降、比較的自由に表現できるようになり、官能的という意味が出てきたのではないでしょうか。元来の意味である「気分や健康がすぐれない、苦しい、つらい」が最近になって復活してきたのかもしれません。

「ぜんぜん」の後ろに肯定が伴う表現に関しても同様です。「ぜんぜん?ない」のように、「ぜんぜん」の後ろに否定や打ち消しを伴うのが正しいと考える傾向が、規範文法としてはあるようです。通常、日本語学習者を対象とした教科書では「あまり」「けっして」「すこしも」「ちっとも」「めったに」などと並んで、「ぜんぜん」は「?ません」とともに使用すると解説・指導しています。ところが、打消しを伴わない「ぜんぜん」は古くから使用されています。明治時代には、夏目漱石も「ぜんぜん+肯定形」を使っていました。たとえば、『坊っちゃん』(明治39年 1906年)では、職員会議で主人公の坊っちゃんが「一体生徒が全然悪るいです。どうしても詫まらせなくっちゃあ、癖になります」と言う場面があります。これに対して、数学教師の山嵐が「私は教頭及びその他の諸君の御説には全然不同意であります」と反論する場面が続きます。同様に、『羅生門』(大正4年 1915年)の中で、芥川龍之介は「これを見ると、下人は初めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふことを意識した」「この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である」と書いています。「ぜんぜん」の後ろに肯定が伴う表現は、夏目漱石や芥川龍之介ばかりでなく森鴎外などの明治・大正期の小説(「好色家が女がうるさいと伝ふと、全然同じ事である」森鴎外『灰燼』大正元年 1912年)、さらには昭和30年代の山本周五郎の作品(「三人とも全然まるはだかであった」『青べか物語』昭和35年 1960年)にも見られる表現だったのです。 山崎豊子原作で、1960年代を舞台にしたテレビドラマ『華麗なる一族』では、木村拓哉が演じる主人公、万俵鉄平が「これならぜんぜんいけますよ」と肯定形で「ぜんぜん」を使用する場面があります(第1話)。これは現代的な用法のように見えるのですが、実は、昭和30年代という時代考証の観点からも‘ぜんぜん’正しいわけです。というわけで、また「ぜんぜん」を肯定文に使ってしまいました。

南 雅彦先生の最新刊

2010年4月2日 掲載


若者ことばと日本語学習の言語表現

南 雅彦(サンフランシスコ州立大学教授)

私は大学で日本語に初めて接する学生を対象としたクラスを定期的に担当していますが、そうした日本語学習者が文法規則に関して仮説をたて検証を行なっていると考えられる事象に直面することがあります。たとえば「起き・る」「見・る」「寝・る」など一段活用の動詞(日本語文法では母音動詞)の辞書形は「る」で終わりますね。五段活用の動詞(日本語文法では子音動詞)でも「走る(hashir・u)」「取る(tor・u)」など基本系語幹の末尾に現れる子音が“r”で終わるラ行五段動詞があり、やはり辞書形が「る」で終わる動詞の存在が顕著です。だから「待ちます」とか「持ちます」など五段活用の動詞(日本語文法では子音動詞)を辞書形にしなさいという指示に対して、「待ち・る」とか「持ち・る」とする日本語学習者が必ずと言っていいほど出てきます。しかし、これは外国語学習者に限ったことではありません。たとえば、「なまける」という意味の「サボる」という言葉は“sabotage”という英語の言葉が語源ですが、「サボ」に動詞を作る接尾辞「る」をつけて合成した言葉です。さらに、レストランで外食することを「ファミ・る」(ファミリー・レストランから)とか「ガス・る」(「ガスト」というレスランの名前から)という若者ことば・造語があります。ただ、これらは、すべて五段動詞であって、一段動詞でないのは活用してみるとすぐにわかります。しかし、こうした若者ことば・造語から考えると、日本語学習者の「待ち・る」や「持ち・る」だってなかなかの誤用だと考えられます。

テレビドラマで、各回が「離脱る」「壊死る」「絞殺る」「夢想る」「予知る」「霊視る」「落下る」「操縦る」などと、すべて動詞が「る」で終わる章だてになっているものがあります。これらをどのように読むのか一瞬迷ってしまうのですが、それぞれ「ぬける」「くさる」「しめる」「ゆめみる」「しる」「みえる」「おちる」「あやつる」と読み、きわめて通常通りです。それにもかかわらず、「る」で統一していることから、新たな造語だという印象を受けてしまうわけです。雑誌を読んでいても、「選挙る」「コピペる」「事故る」などといった表現を目にします。「赤る(せき・る)」に至っては、「携帯メルアドを赤外線通信すること」らしいのですが、その行為自体がわかりません。いずれにせよ、若者ことばや流行語などの造語の大半は、辞書形が「る」となる五段活用の動詞です。 外国語学習者の日本語でも若者ことばでも、単純化という方向性では一致しており、それが新しい造語の動詞が「る」で終わる、つまりラ行五段動詞をベースとした類推的拡張という現象に見られるのではないかと考えられます。 言い換えれば、どのような話者にとってもラ行五段動詞がプロトタイプ(prototype:原型)になっているわけです。つまり、日本語の動詞らしい動詞なのです。たとえば、マクドナルドに行くことを関西以外では「マクる」、関西地方では「マクドる」と言うらしいのです。この違いは動詞化する前に短縮形「マック」と「マクド」がすでに存在しているで、そこに「る」が付いているわけです。

ここで、言語学の分野ではもう議論され尽くされてきた感がある「ら抜き」、つまり一段動詞の可能形も五段動詞にならって、語幹に「られ」ではなく「れ」を付ける傾向が見られる現象を考えてみましょう。たとえば、「食べられる」や「見られる」ではなく「食べれる」「見れる」というのが「ら抜き」です。こうした言葉の変化は通常、若者の間で広まって行くことから、「今どきの若い人はちゃんとした日本語使わない」という批判がある一方で、多くの言語学者は「ら抜き」は日本語の乱れというよりは論理的な変化であると説明してきました。一段動詞と五段動詞の受身形、使役形での規則的な相違から、一段動詞の可能形が「ら抜き」であるほうが論理的であり、整合性があるという説明です。しかも「食べられる」だったら受身なのか可能なのかが不明瞭ですが、「ら抜き」なら受身形と可能形の区別も明確です。もちろん、こうした説明はすべて「ら抜き」の整合性の説明で、若者や日本語学習者がこうした分析を頭の中で即座にしているとは考えがたいわけです。「ら抜き」をラ行五段動詞、すなわち「帰る」や「入る(はいる)」のように語幹が“r”で終わる子音動詞が日本語における動詞のプロトタイプとなっていることからの類推的拡張・単純化だと捉えれば、「ら抜き」現象の説明はずっとシンプルなものになるでしょう。

南 雅彦先生の最新刊

2010年2月5日 掲載


8 queries. 0.297 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress

Copyright c 言語学出版社フォーラム All rights reserved.