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センター試験を見る視点

本多啓(神戸市外国語大学教授)

 今年行われた大学入試センター試験の英語で、たいへん興味深い問題がありました。交差点でスポーツカーとバンが危うく衝突しそうになったという事件を、異なる立ち位置から見ていた二人の目撃者が報告した目撃証言を読んで、設問に答える、そういう問題です。

(問題と正解は http://www.dnc.ac.jp/modules/center_exam/content0278.html
 などで手に入ります。平成22年度英語筆記、第5問です。)

 よく見ると、二人の証言はずいぶん違っています。目撃者Aさんの証言にはトラックとスポーツカーが初めに出てきますが、バンはなかなか出てきません。Bさんの証言には最初にバンが出てきて途中からスポーツカーが出てきますが、トラックは結局最後まで出てきません。

 Aさんの位置からは最初トラックとスポーツカーが見えています。2台は途中まで並んで進んでいます。Aさんから見える、2台の前方の信号は赤ですが、スポーツカーはそれを無視して交差点に入っていきます。そこに向こうからバンが走ってくるのです。事件の原因はスポーツカーだ、Aさんは当然そう思います。

 他方、Bさんには、最初はバンしか見えていません。バンの前方の信号が青から黄色に変わります。するとバンはスピードを上げて交差点に入り、そこでスポーツカーと衝突しそうになるわけです。悪いのは信号が変わって危険なのに減速もしなかったバンだと、Bさんは思います。ちなみにBさんにはトラックは見えていません。Bさんの証言にトラックが出てこないのはそのためです。

 問題に与えられた地図には、二人の立ち位置が書き込まれています。また、二人はそれぞれ自分の位置を言葉で説明もしています。しかしそのような情報がなくても、二人の証言を注意深く読めば、それぞれどこにいたかが大体分かります。

 人は基本的に、自分の観点から見えたものしか語ることはできません。トラックがいたことを知らないBさんが、トラックについて語ることはありません。逆に、トラックの話をしているAさんの言葉から、Aさんのいた位置が大体は分かるのです。他方、バンの近くを歩いていたBさんは、バンの様子をくわしく言うことができたのです。

 同じ一つの出来事でも、違う観点から見たら、違って見えます。それを言語で表現すれば、当然違った表現になります。読んだり聞いたりする人が受ける印象も、違ったものになります。これは、この事件のような客観的な事実の報告でも同じです。

 逆に、言葉を見れば、それを発した人がその出来事をどのような観点から見て、どのようにとらえたのかが分かるのです。心理学者の浜田寿美男氏の表現を借りれば、言葉には視点がはりついているのです。

 これは、目撃証言のような長い文章だけのことではありません。

(1) a. 男は部屋のドアを開けて、中に消えた。
   b. ドアが開いて、男が入ってきた。

 これらの文には、話し手を表す「私」は出てきていません。でも、二つが同じ出来事を述べた文だとするならば、話し手がどこから出来事を見ているか、だいたい分かります。すくなくとも部屋の中にいるか外にいるかは確実に特定できます。

 もっと短い、単語でもそうです。同じ「海と陸の境」を表す語でも、coastとshoreでは違いがあります。Coastは内陸から見た語、shoreは海上から見た語です。

 同じものを指していても観点が違えば違う言葉になります。逆に、言葉を見れば、人の観点や、とらえ方が分かります。言葉を考えることは人間のものの見方の特性を考えることにつながるのです。

本多啓先生の最新刊

2010年8月20日 掲載


福山雅治と私としおと塩化ナトリウム

本多 啓(神戸市外国語大学教授)

 最近自分がある意味福山雅治に似ていることに気がついた本多です。こんにちは。私のことをご存知の方、そんなに怒らないでください。ま、世の中には「勘違い」という言葉もありますが、ここでそれより大事なのは「ある意味」です。どういう意味かって?

 ま、それはいいとして(←授業中の私の口癖だそうです)。

 日本語には「しお」という言葉と「塩化ナトリウム」という言葉があります。日本語には他にもたくさん言葉がありますが、とにかくこの二つの言葉もあります。

 で、この二つはだいたい同じものを指すと言っていいでしょう。厳密にはミネラルがどうたらこうたらとかいう話もあるので完全に同じとはいえないかもしれませんが、まあ、だいたい同じと言っていい。すくなくとも、「しお」が足りないときに代わりに「塩化ナトリウム」を使うのは問題ないでしょう。

 そしてこれは実際にやってみなくてもいいのですが、たとえば「ちょっとそこにある しお とって」って、理科の実験中に言ったら相手はどんな反応をするでしょうか。

 ついでに、家でご飯を食べるときに、「ちょっとそこにある 塩化ナトリウム とって」って言ってみたらどういうことになるでしょう。

 「しお」と「塩化ナトリウム」って、何がどう違うのでしょう。

 「意味は同じ。ニュアンスが違うだけ」ですか。そうですか。それでは、「ニュアンス」って何なのでしょう。まあ何となくは分かるんですけど、でもちゃんと説明しようとすると大変じゃないですか。

 「意味は同じ。文脈によって使い分けがある」ですか。それでは、「文脈」って何なのでしょう。意味が同じなのに、使い分けが出てしまうのはなぜなのでしょう。

 「意味が違う。だから文脈による使い分けがある」ですか。また「文脈」ですか。というか、具体的にどう意味が違うのでしょう。

 というか、そもそも「意味」って何なのでしょう。

 「しお」と「塩化ナトリウム」については、以前とある本に私自身の考えを書いたことがあります。でも、ここではその本の紹介はしません。ちょっと気恥ずかしいので。

 でももしかしたら、このページの下の紹介リンクに出ていたりするかもしれません♪

 授業では毎年のように喋ってるんですが。

 「なんか変な授業やってるなあ」ですか。そうですか。でも同じような話でも、coastとshoreとか、groundとlandとかをネタにしたら、たちまち立派な「意味論」の授業になってしまうのですね。だったら「しお」と「塩化ナトリウム」でも全然いいと思うんですが。

 日常の「当たり前」、というか、あまりに当たり前すぎて「当たり前だ」ということすら分からないくらいの当たり前、それが当たり前でなくなる経験というのは、けっこう大事なのではないかと思うわけです。

 ま、ヒマな人は考えてみてください。とくに何もお礼はできませんが、心から感謝したいと思います♪

 ところで皆さんは、2007年に放映された、『ガリレオ』というテレビドラマをご存知でしょうか。内容を思いっきりはしょって言うと、変な学者が、警察から変な問題の解決を頼まれて、「さっぱりわからない」と歓喜の表情を浮かべながらなぞ解きに取り組み、物理学の知識と思考力と実験を駆使して、最終的に難事件を解決する、というものです。

 「さっぱりわからない」とつぶやきながら不気味なくらいに嬉しそうな顔をする瞬間の福山雅治が、私は好きです。

 いえ別に、「変な学者が変な問題を解いて喜んでる」というところで私と福山雅治が似ているとか、そんなことが言いたいわけではありません。念のため。

 ドラマの中の福山雅治と私が似ているのは、「分からないことに苦しみ、そして苦しみながらも楽しむ」という姿勢です。分からないことがあるのは悪いことでも恥ずかしいことでもありません。それは知的探求の原動力です。

 そして分かった時の快感はもう、何とも言えません。

本多 啓先生の最新刊

2010年5月14日 掲載


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