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連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

6. 結語
 太古、「ことだま」に対する人々の態度は、大らかなものであったと思われる。不吉なことと結びつきそうな縁起の悪いことばの使用はできるだけこれを避け、幸運をもたらすかにみえる縁起のよいことばには、願いを込めてこれを用いる、というふうであったと考えて差し支えないであろう。

 大らかであったというのは、「ことだま」という現象が、白日の下に引き出され、検証を受けるというような目にあうことはなかった、ということでもある。

 ことばが吉凶と結びついていることは、実際にあるのか。あるとしても、それは、偶然によるものであるのか。「神風よ、吹け」といっても神風が吹かなかった、という例はみんなが知っている。が、「ことだま」という語は、廃語とはならずに、現在に至るまで生き続けている。そこに、説明し尽くされていない何かが残っているのではないか。

 そういうところへもってきて、20世紀後半という、文明開化の御時世に、認可(PC)表現ということば狩りが始まったのであった。比べてみると、太古の人々の「ことだま」が、いかにみずみずしく、いじらしく、清純で、まっとうな人間らしくさえみえることか。ことばの消滅は、それと結びついている文化の消滅を意味する、という点は、議論の進め方如何にかかわらず、疑いの余地がない。PC表現にたずさわる関係者の節度ある判断が望まれる所以である。

 脳科学におけるミラー細胞の発見は、21世紀に入ってからのものである。これによって、われわれの心がことばによって影響を受ける仕組みが、かなりの程度まで明らかになったといってよいであろう。

 それは、同時に、「ことだま」現象が我々の心のありようと一定のかかわりを持つということ、しかも、そのかかわりあい方は、ゼロではないが決定的でもない、ということに対する説明にもなっているように思われる。ことばの使用が心に及ぼす影響ということであれば、PC表現も例外ではない。

 ただ、PC表現は、結果的には、一種のことば狩りであるのだから、その限界と弊害について、もっと注意が払われてしかるべきである。特に留意すべきは、ことばと、それによって指し示されるものとの結びつきは、単なる約束であるにすぎず、問題となっている指示物の名前を言い換えてみても、指示物自体にはなんの変わりもなく、したがって、少しも事態の根本的解決にはなっていない、ということである。言論の自由の侵害とか、文化の破壊というようなことになると、たとい、PC表現に多少のプラス面のあることを認めるとしても、そのマイナス面のほうがずっと大きいことになるのではないか。

安井稔先生の最新刊

2008年1月18日 掲載


連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

5. よみがえる「ことだま」

 最近の脳科学の教えるところによると、脳の中には「ミラー細胞」と呼ばれる細胞があるという。少しくだけた言い方をするなら、「さるまね細胞」、最近はやりのことばを使うなら、「ヴァーチュアル細胞」と呼んでもよさそうに思われる細胞である。

 ホームランバッターの打った打球が、高々とフェンスを越えて飛んでいったとする。観客は思わず、ぐっと手を握りしめるのではないか。それは、脳内のミラー細胞が打者の所作を心の鏡に写し、いわば、後追いをするからである。思わず手を握りしめたのは、心の中の後追い行動が、思わずひょいと外部的身体行動に露呈したものであるとみることができる。

 大工仕事の見習いや、スキーの初心者が、それぞれの技術を身につけようとするような場合は、徹頭徹尾、指導者の後を追い、その所作をなどろうとする。それができるのは、まさにミラー細胞あるがためであるとされる。

 ことばの世界に入るとどうなるであろうか。この場合も、ミラー細胞なしには、ことは始まりようがないであろう。踊りを習う人の場合、ミラー細胞の働きは、身振り手振りという形となって現れるが、ことばの場合、それはあるかなきかの「心の身振り手振り」とでもいうべきものの形をとっているといってよいであろう。

 この種の意識は、外国語の学習、特にその初期段階においては、比較的はっきりしているといえるかもしれない。というより、初期段階の場合、活性化されたミラー細胞の欠如は、学習不能の状態を意味することになるであろう。

 「まなぶはまねぶなり」という教えは、この間の事情をとらえて見事である。「まねる」ことは、「さるまね」などといって、しばしば軽蔑の対象とされるが、ミラー細胞の発達は、むしろ霊長類のみにみられる特権であると考えられる。「発明、発見」を「まねる能力」と対比させ、「まねる能力」を一段低いものとしておとしめるのが一般的な風潮であるが、「まねる能力」はむしろ「発明、発見」に至るための前提をなす必要条件という位置づけを与えてしかるべきものである、と考えられる。

 相手のしていること、あるいは、相手のいっていることをそのままなどろうとするミラー細胞がなかったとしたら、およそ、学習とか、理解ということはすべてストップしてしまうであろう。ミラー細胞が、いわば再帰的に働く場合も当然考えられる。

 それは、自分自身がどこかで出会ったことばを、いわば、そしゃくし、反すうすることを意味する。例えば、「あしたは、きっと何かいいことがある」と、繰り返し、繰り返し、心の中でなどったとする。

 そうすると、実際によいことが起こらなくても、心自体はなんであれ、よいことを期待し、起こりしだい、それを受け入れる心の構えが整ってきているということはいえるであろう。

 さらに、「よいこと、悪いことを問わず、自分に起きたことには、すべて、ありがたいと思って、感謝する。」ということを折りあるごとに、心の中でなどるとしてみよう。すると、思いがけなく、それまで暗い負の世界と写っていたものが、たちまち反転して、別の世界となることに驚くであろう。

 こうなると、それは全くことだまの世界である。個々人の心の中に、「ことだまのさきわう国」が現出しているという感がある。もちろん、すべてが簡単にうまくゆくとは限らないが、自分の体質に合った「天をも動かすことば」を捜し求め、それらの導きにしたがって生きるなら、よりよき生を全うする道につながるのではないか。

 ただ、留意すべき点が二つある。一つは、ことだまの世界が未来志向の世界である、という点である。西の海に沈もうとしている太陽を、東の空に呼び戻すことは、念力を使ったとしても、不可能であるということである。

 もう一つの留意すべき点は、心の中の世界と外界とを混同してはならない、という点である。「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」という心境にあっても、火中に身を投ずれば、焼死するのである。無念夢想という禅の極地にあっても、それが線路上のことであれば、死を免れることはできない、ということである。このほとんど自明といってもよい事実が見落とされている論議は、決して少なくはないのである。ミラー細胞が、いかに強力なものであるにしても、それ自身の限界を持っていることを忘れてはならないということである。

安井稔先生の最新刊

2007年10月12日 掲載


連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

4.ことだまの力について

 ことだまに関する以上の記述に、誤りがあるとは思わない。が、不十分なところが二つある。一つは、認可表現に関するものであり、もう一つはことだまに関するものである。いずれの場合も、生身の人間がからんでいるという点が、特徴的である。

 認可表現について、言語学の教えるところによれば、ことばと、それによって指し示されるものとの関係は、恣意的なものであり、バラの花は他のどんな名前で呼んでも、同じように芳香を放つ旨を上で述べた。それに違いはないが、やっと開花に成功した新種のバラを「スカンク」という名前で売り出したとしてみよう。売れ行きは、おそらくあまりかんばしくないであろう。どうしてか。

 言語記号とそれによって指し示されるものとの関係が、言語学の教えるとおりであるにしても、言語記号とその指示物の間には、人間、特にその心や記憶を含む脳の働きが介在している。言語記号とその指示物との関係が、恣意的であるからといって、それでおしまい、というわけにはゆかないのである。どうするか。

 ある言語記号の使用が、多くの人々に不快感を与えたり、嫌悪の情をもよおさせたりするという事実があるとしたら、その言語記号の使用は、できるだけ差し控えるというのが、社会の作法であるということになるであろう。

 そういう語の中には、様々なタブー表現、相手の心を傷つける侮蔑語、さらには、性差別がからむ認可表現の問題も、当然含まれることになる。

 注意すべきは、この場合、不快感、侮蔑感、差別感などは、言語表現自体の中にあるのではないという点である。それらが存在するのは、当事者たちの心の中においてである。

 したがって、その判定には、当然、個人的な差が認められるはずである。そういう中にあって、特定の語の使用に関し、その是非を一方的に論ずることに、どれだけの意義が認められるというのであろうか。

 特定の表現が、いわば禁句となり、代わりに別の認可表現が用いられるとなると、期待どおりにことが運ぶなら、不快な表現が一つ減ることになる。が、それは、同時に、我々の文化遺産が間違いなく、一つ減ることを意味する。

 すると、不快な表現が、一つ減るというプラスの面と、文化遺産が一つ消失するというマイナス面とのかね合いが問題となってくる。文化遺産の消失ということは、禁句表現の指定に伴って必ず生ずるものであるから、問題は不快表現が持つと考えられている不快さの度合いに関する認定ということにかかってくる。その不快さが、我々の生活空間の中において堪えられないほどのものであるか、ということである。

 堪えられないというほどのものでないのなら、その使用度数ということも考慮されるべきであるということはあるにしても、より寛大で、ゆるやかな扱いが望まれる、ということになるのではないか。

 実際問題として、認可表現と非認可表現との境界線をどこに引くか、ということが重大な問題となるであろう。究極的にそれを決めるのは、「みんなの意見」ということにならざるをえないであろう。それは、日本国民全体の「民度」あういは「文化の熟成度」によって決まるということである。情けない決まり方に落ち着くというのであれば、我々自身が情けない状態にあるということである。だれを怨むわけにもゆかない。

安井稔先生のバックナンバー

安井稔先生の最新刊

2007年8月3日 掲載


連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

3. 認可表現と言語学の立場

 日本においても、ことば狩りは、社会全体をおおう晴雲のような様相を呈している。それは、身体的なハンディキャップを示す語の場合、特に著しい。もちろん、ことば狩りは、ほかの分野でも広く行われている。例えば、「裏日本」はいけないという。そうなると、「裏玄関」、「裏門」、「裏庭」、「裏取り引き」、「裏の畑」等々はみんな、使用禁止となるのであろうか。

 本来的には、これらの表現を用いるべきところに別の表現を用いるとしたら、その際の不便は量りしれないものとなるであろう。そういう不便を、社会全体に及ぼすことば狩りを野放しにしておくようでは、文化国家の名が泣くのではないか。

 悪いのは、短絡的な優劣の価値判断であって、「違いがある」という認識ではない。違いはあるが優劣はない、という関係はいくらでもある。AとBとを比較すれば、違いは当然問題となる。その違いを問題としてはならない、ということになると、科学はもちろん、いっさいの学問、芸術、文化は、存在の基盤を失うことになる。

 ここで、身体的ハンディキャップとかかわりのある語の例を一つだけ挙げることにする。次の(3)は「めくら」を語頭に持つ語のリストである。

(3)めくらめっぽう、めくら窓、めくらまし[ただし、「めくら」からの派生語ではない]、めくらへび、めくら判、めくら長屋、めくら将棋、めくらじま、めくらごよみ

これらの語が、そもそも、ことば狩りの標的となることがありうるのかということ自体おかしいと思われる向きもあるかもしれない。注意すべきは、これらの表現が、「めくらみすず」を除きすべて「非生物」([−animate])を指し示している語であると言う点である。その場合「めくら」は、メタファーであることになる。メタファーをことば狩りの対象とするのは、ちょうど、娘に化けたきつねを捕らえようとして、目の前の立ち木になわを掛けるようなものである。

 ちなみに、和英辞典で、「めくら」を引くとblindが出てくる。このblindは、ちょっと意表をつかれた気がするが、まったく差別語ではない。盲人、盲学校、盲人教育をはじめ、各種の盲人団体など、すべてblindを用いている。

 これらのことを言語学的にみると、その眼目は、「単語と、それによって指し示されるものとの関係は、本来、恣意的(arbitrary)なものである」というに尽きる。「バラ」の花は、バラの名で呼ばれているから芳香を放つのではない。その芳香は、他のどんな名前で呼ばれても、変わることはない。

 逆に、名前を変えればその名前によって、指し示されるものも変わるか、というと、そういうことはない。「スカンク」を「バラ」という名前で呼ぶことにしても、その臭いが消えるわけではない。「夢の島」に、ロマンチックな幻想を抱くのは、名前とそれによって指し示されるものとの関係を現実的に見定めることをしないところに生ずる。

 数字にまつわる迷信の多くは、外国語に訳すと、その功力の大半は消滅する。fourは「四」に当たり、「四」は「死」に通じ、縁起が悪い。だからfourは用いない、などという人はいないであろう。ことばをいくらいじり、変えてみたところで、それによって指し示されるもの自体は変わらない。ということは、上で述べてきたすべての事例に当てはまる。「めくら」を「盲人」あるいは、「視覚障害者」と言い換えれば、私の目が見えるようになるか、というと、そんなことはないのである。ことばによることばの言い換えは、気安めにすぎないことになる。とすると、ことだま論議も、認可表現論議も、ことば狩り論議も、みんな、実質を伴わない、いわば、ことばの遊戯、ことばの空回りにすぎないことになるのであろうか。そうではない。

安井稔先生の最新刊

2007年7月6日 掲載


連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

2. ことだまと認可表現(PC表現)

 そういう次第ではあるけれども、英・米においても、ことだまと部分的には重なっていると考えられる言語現象がある。ここで、認可表現と呼んでいるものがそれである。認可表現というのは、PC表現に対する訳語のつもりである。PCというのは、Politically Correct(政治的に正しい)の略であり、新聞、雑誌、ラジオなどで用いても、社会的に非難を浴びたりすることのない表現のことである。

 つまり、「使っても大丈夫」という、いわば、お墨付きをもらっていると考えられる表現のことである。日本語で、「政治的に正しい」といっても、使いものにならないので、「認可表現」としたのである。

 性差別撤廃を標榜している場合が圧倒的に多く、かなり広く用いられている例の一つが、chairman(議長、(大学の)学科主任)にとって代わったchairpersonである。女性の学科主任が珍しくない時代になって、男性専用語の感のあるchairmanをchairpersonに衣がえしたということである。

 目の敵にされているのは、-manという語形である。つまり、ことばをいじっているのである。historyには、男性人称代名詞の所有形hisが含まれているから不可であり、herstoryにすべきであるとする論さえある。それを笑ってばかりもいられないのである。アメリカの大型辞書の中には、herstoryを見出し語として載せているものもあるからである。

 駆逐されるべきは、とりあえず、-manという語形である、となると、それは、一種の「ことば狩り」であるとしてよい。ことば狩りの対象となる語は、その使用が、社会的に好ましくないとされている語である。その背景的状況は、もちろん異なっているけれども、避けるべき語を抱えているという点において認可表現とことだま、特に災いを招くとされることだまとは、互いに無縁であるとはいえないであろう。

 いずれにせよ、ことば狩りというのは、まことに空しい営為である。それは、文化の破壊につながる。これは、決して誇張ではない。一般に、気づかれにくいというだけのことである。それは、町名変更のような場合にもみられる。共通なのは、「ことばが失われる」という点である。

 ことばがなければ、文化は成立しない。「無形文化財」という語がある。伝統芸能や工芸技術に関して用いられるが、無形であるからといって名前がないことを意味するものではない。それぞれの文化財には、みんな名前がついているのである。当たり前のことであるが、見過ごされやすいことに変わりはない。

 ここで、ことば、あるいは、ものの名前が持つ重要性を納得させてくれる短い対話を、次の(1)、(2)に示しておくことにする。

  (1) A: 「この世で一番大きなものは何ですか。」
     B: 「大宇宙でしょう。」
     A: 「もっと大きなものがあるんじゃないですか。」
     B: 「それは、何という名前のものですか。」
     A: 「……」<沈黙>
  (2) A: 「この世で一番小さなものは何ですか。」
     B: 「素粒子ではないですか。」
     A: 「もっと小さなものがあるんじゃないですか。」
     B: 「中性子とか、陽子というものではないですか。」
     A: 「もっと小さなものがあるんじゃないですか。いわば、指の間から、こぼれ落ちているようなもの。」
     B: 「そうかもしれませんが、それは何という名前のものですか。」
     A: 「……」<沈黙>

これらの場合(1A)、(2A)の問いに対する正しい答えは、やや禅問答めくが、「ことば」、あるいは、「ものの名前」である。「この世における最も大きなもの」、「この世における最も小さなもの」は、それらを示す名前がなければ、存在するにいたらない、ということである。

 困ったことに、認可表現に関する潮の流れは、太平洋を越えて、わが国にまで押し寄せている。「スチュワーデス」(stewardess)は女性専用の性差別用語であるから、「客室乗務員」(flight attendant)とすべきであるとする議論などは、箸にも棒にもかからない茶番である。-essが女性語を示す接尾辞であるというのは正しいが、日本語である「スチュワーデス」のどの部分に、いつ女性専用語であることを示す形が、埋め込まれたというのであろうか。

 「看護婦」の仕事をする「(国家試験に合格している)男性」を「看護師」という。そこまではまあよいが、最近では、女性の看護婦も、「看護師」と呼ばれるらしい。「看護婦」は、性差別表現であるから、廃用にされなければならないというのであろう。「婦長さん」は、「師長さん」になるのであろうか。

 そういうことばいじりは、「看護婦」とか、「婦長さん」ということばによって、支えられてきた文化的遺産の消失を意味するということに、思いをいたすべきである。その分だけ、日本の文化的遺産の総体は、間違いなく、やせ細ってゆくのである。

 しかも、女性の入院患者などの場合、看護の担当者が、女性であるのか、男性であるのか、ということが、どうでもよいことであるというはずはないであろう。そんなことは、一顧にも値しない、と性差別表現撤廃論者は考えているのであろうか。

 ついでながら、「女優」(actress)という語が、日本においても、アメリカにおいても、性差別表現として非難されることをまぬがれているのは、性差別表現撤廃論者が抱えている重大な矛盾の一つである。「女優」(actress)というのは、性差別表現であるとはいっても、疑いの余地なく、女性の優位を示している語である。そういう語は、性差別表現の仲間からは、外れるのであろうか。

 やや微妙な立場に置かれているのが、Queenである。motherやsisterの場合は、自然の性を示す語として、いわゆる性差別表現のらち外に置かれ、問題は、生じない。つまり、男性でも、女性でも、その役目はつとまる、ということはない。が、女性であっても、王位を継承すれば、王様、つまり女性王様となるはずである。「女性天皇」というがごとしである。ところが、Queenは、性差別表現であるから、廃止すべきであるとする法令でも出れば、イギリスでは暴動が起きるであろうといわれている。Queenという語は、性差別表現であるかないかにかかわらず、掛け替えのない文化遺産であるという、何よりの証拠となるであろう。

安井稔先生の最新刊

2007年6月1日 掲載


連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

1.「ことだま」とは何か

 「ことだま」は、やや古めかしいところのある語ではあるが、まだ死語ではない。折にふれ、いまでも耳にする。「ことだまのさきわう国」という連語表現で用いられることが多い。

 これは、万葉のいにしえにまでさかのぼる表現である。以来ずっと生き長らえてきたことになる。「ことだま」を漢字で書けば、「言霊」である。ことばの中に宿っていると考えられる「精神」、「魂」、「霊力」ということである。

 手元の国語辞書によると、「ことだま」は、ことばにあると信じられた「呪力」である。「呪力」というからには、「プラスの力をもっているもの」と、「マイナスの力をもっているもの」とが当然あると考えられるが、「ことだまのさきわう国」というような場合、プラスの面だけが強調されることになっても不思議はない。「ことだまのさきわう国」は、「ことばに宿ると信じられていた霊力が豊かに栄える国」であり、それは、「ことばに宿る霊力」によって、「幸福がもたらされ、さらにそれが広がってゆく国」を意味することになる。

 ここで、目をちょっと日本の外へ転じてみることにしよう。アメリカ、イギリス、中国などが「ことだまのさきわう国」とされたことが、一度でもあっただろうか。「否」であろう。確かに、イギリスは名だたる詩人を輩出していることで知られているが、それによって、イギリスという国が「ことだまのさきわう国」とされるようなことはなかったと思われる。

 ただ、古英語の時代、「ケニング」(kenning)の名で知られていた婉曲語法のあったことは、よく知られている。ship(船)という語の代わりに、the whale’s path(くじらの道)という表現を用いるがごときである。アイスランド語などにもみられるものであるとされている。これは、要するに、特定の語を口にすることによって、わが身に振りかかってくると考えられていたいまわしい呪力を避けるための手だてであった。相手の名前を、直接口にすることをはばかる風習が、いわゆる未開社会において、広く行われていたこともよく知られている。ハリー・ポッターの世界では、その名を直接口にすることを許さない人物の存在が、重要な役割を果たしている。

 問題は、したがって、「ことだま」が現代の市民社会においても、まだその命脈を保っているという点にある。事実、「ことだまのさきわう国」というのは「日本国」の美称にまでなっているのである。

 そういう点を突き詰めてゆくと、神道を中核とする生活理念とか、生活空間ということに至りつくように思われる。それが、鉱脈の露頭よろしく、姿を見せるのが、「祝詞(のりと)」であろう。祝詞は、現在でも結婚式や地鎮祭の際における神事にまだ生きている。

安井稔先生の最新刊 安井稔先生の最新刊

2007年5月4日 掲載


連載:「痛み表現」について5

安井稔(東北大学名誉教授)

9. 結 語

 痛み表現は、原則的にはメタファーの世界である。「ズキンズキンする痛み」(a throbbing pain)という痛み表現は、どんなに言い換えを重ねていっても、所詮メタファーの世界の外側に出ることはできない。

 隠喩(メタファー)というと、一般に、「雪のような肌」「バラのようなほほえみ」などから「ような」を除いた表現、すなわち「雪の肌」「バラのほほえみ」などを指すと説明されることが多い。が、これは、メタファーのいわば本命ではない。

 メタファーの本命は、表現したい意味内容はあるのに、それを表現するのに適切な表現が見つからないという場面に際したときの働きにある。適切な表現が無いからといって、「無い表現」を用いることはできない。既存の表現を用いるしかない。そこで駆り出されるのが、表現したいと思っている意味内容とどこか似ているところのある意味内容を表す表現である。「あいつはタヌキおやじだ」とか、「あいつはまるでヘビだ」などの例で考えてもよい。

 メタファーでない痛み表現はもちろんある。代表的なのが「痛み」(pain, ache)、「痛い」(hurt)などである。が、それらは、上述したように、痛みのいわば外側の世界のものである。「どのように」と問えば、メタファーの世界に入って行かざるを得ないことになる。

 これに、オノマトペ的表現がいわばかぶせられると、痛み表現はなんとなくにぎやかになってくる。このオノマトペ的要素は、語彙化の進んでいる英語ではあまり見られない。

 問題は、語彙化の進んでいる英語とオノマトペ的表現を多用する日本語とでは、どちらが医者に病状をより正確に伝えうるかということであろう。結論的に言うと、こういう比較をすることはできないということになるのではないか。そういう比較がわずかに可能であると思われるのは、医者と患者とがともに堪能な二言語使用者である場合であろう。

 こういう場合でも、どれだけ正確な比較ができるか疑問である。メタファーによって示される意味には、「お察しいただく」という部分が、通例、含まれているからである。比較的紛れがないと思われる「胸やけ」(heart burn)のような場合でも、全く見当違いをしている初診患者がいるという話も聞いている。

 結局、日・英の痛み表現を比較するとき、その優劣を論ずることは不可能でもあるし、あまり意味がないということになるであろう。それぞれの言語は、この分野においてもそれぞれの言語なりに自足しているということである。「のどが痛い」ときにはsore throatで済ませ、「肩がこっている」ときにはa stiff neckで済ませる。それで不自由はないのである。が、すでに述べるところがあったように、「しみる痛み」の様子や「しくしく痛む」様子をそのまま英語で伝えることはできない。英語で痛みを伝えるには、英語の中に敷かれている痛み表現のレールに乗せなければならない。それが英語による伝達の限界でもある。

安井稔先生の最新刊

2006年12月1日 掲載


連載:「痛み表現」について 4

安井稔(東北大学名誉教授)

7. 痛み表現の文法

 ここで、とりあえず、英語における痛み表現としてどのようなものがあるか、ひと渡り見ておくことにしよう。まず、次の (1) である。括弧内は、対応すると考えられる日本語の痛み表現である。

    (1) What is the pain like? Burning? Or aching? “It’s just aching!”
      「痛みはどんな具合ですか、ひどく痛みますか、それともただ痛いだけですか?」「ただ痛いだけです」)

この場合、burningはオノマトペではないメタファーである。「燃える(ような)痛み」という日本語のメタファー表現はあまり普通ではないので「ひどい(痛み)」とした。

 なお (1) におけるachingの代わりに *painingを用いることはできない。「苦痛を与える」という意味の動詞としてpainを用いることは、(皆無ではないにしても)通例はないとするのがよいであろう。Does it hurt you? が広く用いられるのには、*Does it pain you? の欠落を埋めるという面もあるかと思われる。

 名詞用法は、painにもacheにもある。acheの用法でなじみ深いのは、複合語の第二要素としてのものであろう。例えば、head ache, tooth ache, back ache, muscle ache など。「筋肉痛」はmuscle pain とも言う。また、「耳痛」はear acheであり、「目の痛み」もeye acheと言うことがあるようだが, finger ache, toe acheなどはふつうではないようである。このように見てくると、acheを第二要素とする複合語の第一要素は、痛みの生ずる場所を表す語であり、しかも、その場所は日常的に痛みが生じやすいとされている場所であることが分かる。他方、acheが単独で、すなわち複合語の一部としてではなく生ずるのはaches and painsという複合形においてであり、単独形のacheの生起40回に対し16回がこの結合形においてであるという報告もある。例えば、The old man is continually complaining of aches and pains.(その老人はいつもあそこが痛い、ここが痛いとこぼしている)など。

 次の (2) は、メタファーによる痛み表現の代表的例をひとまとめにしたものである。

    (2) a. a burning pain(焼けるような ‘ほてる’ 激しい痛み)
      b. a throbbing pain(ずきずきする痛み)
      His finger throbbed with pain.(彼の指はずきんずきんと痛んだ)
      c. a stabbing pain(刺すような痛み)
      d. a shooting pain(ずきずきする痛み、走る痛み)
      e. a stinging pain(刺すような痛み、ずきずき、ひりひりする痛み)
      f. a nagging pain(しつこい痛み)
      g. a gnawing pain(しつこい痛み)

これだけの例においても、メタファーの形が英・日で一致している場合と、一致していない場合とが見られる。(2a, b, c, e) などはかなり一致しているほうであるが、他は多少ともずれがあるといってよい。「走る痛み」(2d)、「がみがみいうような痛み」(2f)、「がりがりかじるような痛み」(2g)などは、日本語としてあまり熟しているとは言えない表現であるからである。これらは、英語にはあるが日本語には欠けている痛み表現であるということになる。が、既出の「しみる」「しくしく痛む」などは、日本語にあって英語にない痛み表現であるから、痛み表現は、英・日のどちらかが一方的に多いという断定は下しにくいように思われる。

 オノマトペという角度から (2) を見ると、どうなるであろうか。まず、(2) に挙げた七種類の痛み表現は、英語の場合すべて語彙化されている表現で、オノマトペは一切含まれていない。これに反し、日本語の「ズキズキ」「ズキンズキン」「ヒリヒリ」などはオノマトペ的である。throbbingを「脈を打つような」とか「脈拍的、鼓動的」と訳せば語彙化された形となるが、日本語の痛み表現としては気が抜けてしまう。日・英語における痛み表現の違いは、優劣の差としてではなく、文化の違いとしてそのまま受容するしかないであろう。

8. 痛み表現の統語的側面

 ここで、痛み表現の統語的側面について少し見ておくことにしよう。痛みを表す語として、painとacheがあることはすでに述べたけれども、acheが概して体の特定部位と結びついている語であることを思えば、acheよりはpainのほうが無標の(unmarked)語であることは明らかであろう。痛みには、天候(weather)と似ているところがある旨を上で述べたが、その際問題となるのはpainのほうであって、acheのほうではないことも、すでに明らかであろう。

 そういうpainが一般的な修飾要素としてどのようなものをとるか、次の (3) を見ることにしよう。

    (3) acute, chronic, dull, sharp, severe, enduring, slight, constant

これらはいずれも、痛みをいわば外側から見ているときの修飾語で、メタファーとは無縁であるが、ひとたびその内側を覗こうとすると、メタファーの世界となり、既出 (2) に述べたような修飾要素をとることになる。この場合注意すべきは、これらの修飾要素がいずれも動詞の現在分詞であるということ、すなわち、それらが語彙化(lexicalize)されている表現であること、さらに、対応する日本語表現においては、語彙化されていないオノマトペ的表現が多いということである。

 なお、上掲 (3) に列挙した形容詞は、通例、an acute painのように、「不定冠詞+形容詞+名詞」の形で用いられる。これは、painによって指し示される対象が具象化され、「もの」として扱われていることを示す。「痛み」を「もの」として扱う傾向は、次の (4) のような場合、さらにはっきりする。

    (4) Sometimes the pain gets worse.

 けれども、本来、painというのはとらえどころのない天然現象にも似た不可解なものである。とすれば、不可算名詞としての用法のほうが本来的な、いわば無標のものであるということになるであろう。例えば、次の (5) のような場合である。

    (5) a. I woke up in great pain.
      b. cry with pain

安井稔先生の最新刊

2006年11月2日 掲載


連載: 「痛み表現」について 3

安井稔(東北大学名誉教授)

5. 翻訳におけるオノマトペの扱い

 もう一つだけ例を挙げることにしよう。「その庭はピーピーチューチューさえずる小鳥でいっぱいだった」というオノマトペを含む表現は、“The garden was full of whistling(or chirping) birds”という表現で表すことができる。注意すべきは、「チューチュー」「ピーピー」に当たるwhistle, chirp がそのままの形で動詞として語彙化され、しかも、現在分詞の形をとって形容詞的に用いられているという点である。現在、過去、過去分詞という語形変化も可能であり、一般動詞のsing( sang, sung, singing) などと全く同じ資格で英語の語彙体系の仲間入りをしているのである。

 日本語にはこれがない。日本語のオノマトペはすでに触れるところがあったように、自然界の音響に対して「言語という鏡」を向け、日本語の音結合が許す限りの忠実さで、それを写そうとするものである。語彙化という操作過程はほとんどないといってよい。その代わり、いわば小回りが利く。例えば、さえずり始めたウグイスが「チャッチャッ」といっていたかと思うと、「ケキョ」というようになり、それがやっと「ホー ホケキョ ケキョ ケキョ」というようになった、などと言うとき、英語で言えとなったらお手上げであろう。

 日本語のオノマトペが、いわばはだかのまま放り出されているのに、違和感を伴うことなく文の一部に組み込まれうるのはどうしてであろうか。それは、日本語のオノマトペが、少なくとも原理的には、「ピーピーと鳴いていた」のように、「(オノマトペ)+と」の形で用いられるからである。「と」の前には、引用符に囲まれた部分(「…」)があると思えばよい。この引用符の中には、いかなる無意味音節語も、外国語も、オノマトペも、すべて入りうることを忘れてはならない。

 日本語におけるオノマトペは、現在でも依然として自然音の模写という特性を保持しているのに対して、英語におけるオノマトペは、すでに語彙化されている部分が大きく、その分だけ、自然音の模写という特性は失われている。踏み込んだ言い方をするなら、語彙化されている英語のオノマトペは不自由を強いられていることになる。

 このように見てくると、文学作品の日・英翻訳、英・日翻訳においても、オノマトペの扱いは新しい視点を与えられることになるであろう。英・日翻訳の場合で言えば、英語の原文にはオノマトペらしきものがないのに、対応する日本語訳にはオノマトペがしばしば現れるという指摘は、従来もなされてきた。そういう際の日本語におけるオノマトペの使用は、なめらかな日本語と引き換えに、「安易で堕落した翻訳」を招来するものとして、批判の対象になることもあったと思われる。逆の場合、例えば、森鴎外の『即興詩人』におけるように、日本語訳においてオノマトペを用いない場合、それは翻訳における格調の高さを保持するための見識を示すものとして讃えられることもあった。

 けれども、このような評価には、俗に抵抗しようとしてかえって自らの道を踏み外しているという趣がある。英語においては語彙化が進んでおり、日本語はそうでないという面がある以上、英語にはないオノマトペが日本語では出てくるというのは、むしろ当然であろう。

 翻訳というのは、語句を語句で置き換えるという作業ではない。英語の文が与えられたら、それを一度場面に戻し、その場面に日本語でならどう言うかということを求める作業である。Good morning! を「よい朝になりますように」と訳さずに「お早うございます」と訳すのはこのためである。問題は、日本語訳の中におけるオノマトペの使用自体にあるのではなく、それがどれだけ適切に用いられているかということにかかってくる、とすべきである。

6. 痛み表現とメタファー

 意を尽くすには至らなかったが、痛み表現はメタファーであること、痛み表現にはオノマトペも含まれていること、さらに、痛み表現は日・英でかなりの差があることなどについて触れてきた。こういう痛み表現に対する様々な切り口は、どのように絡み合っているのか。また、どのような整理が可能であるのか、もう少し考えてみよう。

 こういうことを考えてみる気になったのは、やはり、前出の丸谷才一・中井修「賢い患者は日本語が上手」という対談に触発されてのことであった。この対談のタイトルは全く正しい。賢い患者というのは、医者の求めている質問に、そして、その質問だけに過不足なくことばを選んで答える患者のことである。これは、グライス(H. P. Grice)の「協調の原理」にそのままのっとっている答え方でもある。

 困るのが痛み表現の場合である。痛みは計量化を許さない。視力表、体温計、血圧計など、みんな役に立たない。虹の七色に相当するような、階層をなす七種類の痛み表現でもあればよいのであるが、それもない。困った患者は「ずきずき痛む」とか「しくしく痛む」などと言う。これが丸谷氏の気に入らない。「こういうオノマトペを多用するから、日本人の患者の病状は医者に分かりにくい」という趣旨の発言をしておられる。欧米の患者はオノマトペを多用しないから、その病状は分かりやすいというのであろうか。また、オノマトペでいけないというなら、他のどのような表現を用いればよいというのであろうか。こういうことに、肯定的な答えは期待し得ないはずである。丸谷氏の勇み足としか言いようがない。どうしてか。

 痛みに限って言うと、決定的に重要なのは、それが体の内部で生じている現象であるという点である。目に見えず、耳に聞こえない。手で触ることもできないものであるから、直接的、具象的記述を許さない。となると、間接的な比喩的表現を用いざるを得ないということになる。「刺すように痛い」なら直喩(simile)、「ずきずき痛む」なら隠喩(メタファー、metaphor)で、オノマトペでもあることになる。

 すべての痛み表現は、原則としてメタファーである。少なくとも比喩的である。すべての痛みの表現がオノマトペであるということはない。「しみる痛み」「骨盤の中をあちこち針で刺されるように痛い」などは、痛み表現ではあっても、オノマトペではないからである。

 けれども、オノマトペ表現自体が、語彙化の進んでいる英語におけるよりも、日本語におけるほうが豊かであることを思えば、痛み表現の総体は、英語におけるよりも日本語におけるほうが豊かであることが予測される。これを裏付ける実証的なデータを持ち合わせているわけではないが、語彙化された痛み表現が、オノマトペ的メタファー表現に比べ、生彩を欠いていることは否めないであろう。

安井稔先生の最新刊

2006年10月6日 掲載


連載: 「痛み表現」について 2

安井稔(東北大学名誉教授)

3. 痛み表現とオノマトペ

 擬声語、擬音語のことを、英語では「オノマトピーア」(onomatopoeia)と言う。最近ではonomatope(s)という形も用いられているらしい。日本語では、もっぱら「オノマトペ」である。フランス語のonomatope´に由来する。「オノマトペ」のほうが、「オノマトピーア」よりも、日本語に、すなわち日本語の音結合に、なじみやすかったことになるのであろう。

 最近では、ゆるやかにオノマトペの使用領域が拡張され、音声や音響と直接的には結びついていない場面においても使用されるようになってきているようである。例えば、「しくしく痛む」などのような痛み表現も、オノマトペであるとされている(丸谷才一・中井修「賢い患者は日本語が上手」『文芸春秋』平成18年3月号)。「しくしく」痛んだり、「ずきずき」痛んだりしても、具体的な音響を伴うわけではない。したがって、オノマトペというのは音声や音響を伴う場合に限られるとする立場からは、一種の誤用であるとすることもできる。が、現在では、オノマトペの拡張用法であるとするほうが妥当であるかもしれない。

 こういうことを承知の上で、以下、日本語のオノマトペと英語のオノマトペとでは、どこがどう違うのか、少し考えてみることにしよう。まず、数の上でいうと、日本語のほうが英語より断然多いと言ってよいであろう。風と雨のオノマトペ(例えば「そよそよ吹く風」、「ひゅうひゅう吹く風」、「しとしと降る雨」、「ざあざあと降る雨」など)だけを比べてみても、このことは明らかであろう。

 日本語は、英語よりも、オノマトペの数が多いということは、日本語には英語にはないオノマトペがたくさん含まれていることを意味する。ここで、日本語におけるオノマトペを二つのクラスに分け、一つは英米と共通のもの、もう一つは日本語特有のものとしてみよう。この場合、日本語における二つのクラスのオノマトペが互いに異なる原則に基づいて作られていると考えるのは不自然であろう。したがって、英語と日本語とに共通であると考えられるオノマトペに関し、その異同を明らかにすることができるなら、それは日本語のオノマトペ全体を規定している特性を明らかにするのに役立つであろう。

4. 日本語のオノマトペと英語のオノマトペ

 日本語のオノマトペと英語のオノマトペとを比べようとするとき、ともすれば、興味本位のお笑いネタの提供ということに堕しやすい。それを避けるために、ここではまず、結論的に、日本語のオノマトペと英語のオノマトペとを分けていると思われる特性をできるだけ原理的に述べることから始めることにする

 まず日本語のオノマトペには自然界における音(例えば、風の音、雨の音、川のせせらぎ、木の葉のざわめき、など)、動物や鳥の鳴き声、人間の泣き声や笑い声などに対し、いわば「ことばの鏡」ともいうべき一種の鏡を用意し、その鏡に写ったままをできるだけ忠実に言語化しようとする特性がみられる。

   「できるだけ忠実に言語化しようとする」ということには、二つの注記が必要である。一つは、オノマトペがあくまでも言語化されたものであり、ものまね達人の「声による模写」とは異なるという点である。もう一つの注意すべき点は、「できるだけ忠実に」とはいっても、自然界や人間界における音が日本語のオノマトペとして言語化される際には、日本語における音結合の形に従うという制約を持っている、という点である。平たく言えば、片仮名書きできないものはオノマトペとして用いることはできないということである。

   そういうことなら英語も同じではないか、と言われるかもしれない。が、そうは言っても、英語のオノマトペ自体均質的ではない。それは、大まかに言うと、二つの層に分けるのがよいと思われる。語彙化(lexicalization)の進んでいないものと、進んでいるものとである。

   ここで、語彙化の名で呼ばれている現象について、少し触れておくべきであろう。これは、「日・英語におけるオノマトペの比較」ということが論ぜられる際、通例、見事に抜け落ちている点でもある。しかし、私見によれば、日本語のオノマトペと英語のオノマトペとを分けている弁別的特性は、[±lexicalization] であると言ってよいように思われる。

   具体的な例で見てゆくことにしよう。「コケコッコー」は“cock-a-doodle-do”で「ワンワン」は“bow wow”、「ニャーニャー」は“mew”、「(フクロウの)ホーホー」は“hoot”である。これらは、語彙化の度合いがあまり進んでいない英語のオノマトペの例である。その限りで、日本語のオノマトペに近いといってよい。

   それでも、語彙化の度合いは英語におけるほうが大きい。例えば、「外でネコがニャーニャーいっているのが聞こえた」と“I heard a mew of a cat outside”とを比べてみることにしよう。この場合、mew は、その不定冠詞からも分かるように、可算名詞として目的語という文法的機能を担っている。

   ここで思い出されるのが、わらべ歌の「マクドナルドおじさんの農場」(Old MacDonald Had a Farm) である。ここには、たくさんの動物が出てくるが、その鳴き声にはすべて不定冠詞がつけられている。というより、不定冠詞のついていない、いわばはだかの名詞を探してみたが、見つからなかったのである。例えば、duckなら a quack、pig なら an oink、sheepなら a baa、cat なら a mew、cow なら a moo などである。どの鳴き声も語彙化されており、純粋なオノマトペ的表現ではなくなっている。

   純粋のオノマトペを可算名詞扱いにするのはオノマトペを「もの化」しているということであり、これは英語という言語の際立った特性である「具象化」(objectification)の一例であるとみることができる。

安井稔先生の最新刊

2006年9月1日 掲載


連載: 「痛み表現」について

安井稔(東北大学名誉教授)

1. 英語の傷は「しみる」ことがない

 アメリカで歯医者に行った。薬をぬられ、思わず顔をしかめた。と、“Does it hurt you?”ときた。この場合、日本語でなら、ほとんど100パーセント「しみますか」である。今度はデパートへ行った。靴の売り場である。試しばきで、ちょっときついかなと思っていると、“Does it hurt you?”ときた。日本語なら、「きついですか」というところである。

 ともかく、アメリカって大ざっぱなんだなぁ、という思いを深くした。が、この思いは正しいのであろうか? 限られたこれだけの例から、そのような断定を下すことはできない。状況次第で日本語のほうが大ざっぱであるという場合も当然あると考えられる。けれども、これだけは動かない、と考えられる点もいくつかある。

 まず、英語には「しみる」という痛み表現が欠落しているという点である。が、こう言い切られると、反論される向きもあろう。まず、歯医者自身、薬が歯にしみて痛いと感じている患者に向かって“Does it hurt you?”と言っているではないか。また、和英辞典を引くと、「しみる」に対し、smart, stingなどの語が当てられているではないか、と。

 それはその通りである。が、そうであっても、英語にこの痛み表現が欠落していることに変わりはない。どうしてか。確かに、「しみる痛み」という状況を与えられている場合、それを記述する英語の表現はある。が、それらは「しみる」という形のものではない。

 「しみる」というのは、「吸い取り紙にインキがしみこんでいくように、痛みが組織の中に浸透し、広がってゆく」という含みがある。けれども、こういう含みが、英語の対応表現には全く欠けているのである。

 本来、「しみる」にあたる英語は“permeate”であるが、この語が痛み表現に用いられることはない。日本語と英語とでは「痛みの形」が異なるのである。

2. 痛みの形

 そもそも痛みに形はあるのか。これに対する答えはイエスでもありうるし、ノーでもありうる。もしも、「形」が視覚や触覚によってとらえられるものの外見的な姿ということであるなら、痛みに形はないことになる。痛みは目で見ることも手で触ることもできないからである。

 頭が痛いというとき、頭に触ってみることはできる。が、頭は痛みが生じている場所であって、痛みそのものではない。「痛み」というのは、考えてみると実に不思議な感覚である。

 「痛みには天気(weather)に似たところがある」とハリデー(M. A. K. Halliday)は言う。説明は特にない。が、これは言い得て妙である。頭が痛いとき、頭が「一面に」痛いのである。どこから始まってどこで終わるというようなことはなく、ただ「一面に」痛いのである。例えば、雨がどこから始まりどこで終わるともなく降っているように。

 では、痛みにも形はあるとする主張のほうはどうなるのであろうか。目で確かめることができる姿がないとすると、その形は心でとらえるものであることになる。そして、それならある。例えば、患部が「ずきんずきん痛む」という場合、その痛みが脈拍に同調する痛みであり、「脈を打っているような」という形をもっている、と考えることができる。この場合、偶然、英語にもa throbbing painという対応形がある。

 同様に、「刺すような痛み」には、「肌に針を刺す」という形が考えられている。英語のa stinging painも同じであろう。が、英語の痛み表現と日本語の痛み表現とが一対一の対応関係を示しているのは、むしろまれな場合である。前述の「(薬が歯に)しみる」の場合がそうであったし、「(おなかが)しくしく痛む」などの場合も同様である。「しくしく痛む」というのは「絶えず鈍く痛むさま」のことであるが、もとにある形は「しおれて泣くさま」であろう。

 ここで、「心の中の形」と言っているのはメタファーと言ってもよいものである。「しみますか」の例で言うなら、「患部にある種の痛みがあり、うまく言い表せない」という場合、それを言い表すのに、「吸い取り紙にインキがしみてゆく様」がぴったりだと思い、「(痛みが)しみます」と言えば、それがメタファー表現である。

 「痛み」がある場合、ただ「痛い」と言って済ますことができるなら、メタファーは不要である。“Does it hurt you?”がそれである。が、もう少し細かに心の中の形を伝えようとすれば、メタファーの力を借りなければならないことになる。それは、メタファーによる新しい言語化である。

 他方、いっさいの経験は言語化されない限り経験としては存在し得ない、ということがある。したがって、英語の中に「しみる」に対応する痛み表現がないなら、英語には、そして、英語国民には、「しみる痛み」が存在しないことになる。奇妙なことだが、これは論理的必然である。我々は「春の小川はさらさら流れる」と信じているが、イギリス人やアメリカ人に「さらさら流れる小川」は存在しないというのと同様である。

安井稔先生の最新刊

2006年8月4日 掲載


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