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言語学と言語教育:話すのに文法って必要?(Part 2)

長谷川信子(神田外語大学教授)

 最近の大学生に特徴的な英文の間違いに、Tom was riched. Tom is watch television. Tom was studied English. といった、be動詞がどこにでも出てきてしまうといったものがあります。こうした間違いは、以前には余り見られなかったように思います。今後もう少し分析が必要ですが、こうした間違いは「be動詞を日本語の「は」と捉えている」ことによると指摘する人がいます。今の大学生の多くが学んだ中学校英語の教科書は「話すこと」に重きを置き、be動詞は、He is a student. He is tall. He is studying English. など、動詞の区別とは関係なく、内容の観点から必要な表現として比較的初期に導入されていたようです。英語では「主語を必ず述べること」を意識づけされた生徒が、このような、be動詞が頻出する表現を「十分な文法的な説明がなく」初期に次々と導入されれば、日本語の主語には「は」がよく使われますから、be動詞が「は」の役割を持つと「誤って一般化」をすることは不思議ではありません。

「話すこと」「伝えること」を中心に考えると、動詞や名詞といった「内容語」の習得に意識がいきます。多少、文法を無視しても、単文(まがい)もしくは単語の連続だけでも意味は通じることも多いでしょう。ただ、文法を意識せずに外国語を使えば、できあがるのは「ピジン」です。つまり、内容語は外国語だが、文法的には母語とも外国語ともつかないといった体系です。上記の間違ったbe動詞の使い方は、日本語と英語のピジンとも言えるかもしれません。文法を無視した結果の産物を垣間見ているのかもしれません。

言語(外国語、英語)を話すことは楽しいです。その楽しさが言語を学ぶ動機にもなるでしょう。ただ、「眼前事象」を超えた、人間の言語が本来持っている「知」を表現する手段としての言語に至ることを目指すなら、文法は避けて通れません。そして、英語の文法(その意味では、どの言語の文法でも)で最も重要なのは、内容的には意味が判然としない(ように思える)、時制や相の表れ方を含めた助動詞の体系、目的節や関係節、副詞節を含めた文の埋め込み、にあり、それが言語に備わっているから、「眼前の事象」を超えた過去や未来のこと、単文では表しきれない複雑な人間の思考・出来事の関係性を表現できるのです。言語がヒトの「知の基盤」たる所以です。

言語の文法事項にも、話すことに特徴的な事項(日本語の終助詞や、英語の主語と助動詞の倒置などのように主文に特有な現象)と、「知」の表現としてヒトの高度な認知活動を支えるに必要な事項(文の埋め込みや文同士の関連性)と、そのどちらにも必要な事項(文構築、語形成の基本)とで多少異なった構造や文法操作があるのかもしれません。今、私は、その仮説の観点から、特に日本語と英語に言及して研究を進めています。それは、広くは、言語の構造とはどうなっているか、という理論言語学の問いですが、言語は言語使用(情報伝達)といかに繋がっているか、という認知・語用的な問いでもあります。そして、それを、言語(英語)教育においても、ピジンを作らせないために、日本語話者にとって英語を学ぶ際、「最低限必要な文法」とは何か、そこから、より高度な知的表現体系へいかにつなげるか、といった「言語使用の目的にも対応可能な文法」へと応用できる形で発展させられたら、と思ったりしています。

長谷川信子先生の最新刊

2008年10月24日 掲載


言語学と言語教育:話すのに文法って必要?(Part 1)

長谷川信子(神田外語大学教授)

 30歳以上の人(ですから、ほとんどの教員)にとっては外国語(英語)を学ぶことの大きな部分は「文法を学ぶこと」だったことでしょう。それが、ここ10年位の間に(具体的には、学習指導要領の改訂と関連して)「外国語を学ぶこと」イコール「外国語使うこと・話せるようになること」というようにシフトしてきています。実際、「文法訳読法」により英語を学んだ私も、大学で初めてネイティブの先生の授業があって、そこで「英語が通じた」ことから来る感激は、テストで良い点を取ることとは全く次元の異なる楽しさ・嬉しさでした。

 文科省は、2011年から全国の公立小学校でも小学校5,6年生に「正課」として英語を導入する方針を打ち出しました。そして、すでに多くの小学校で英語は何らかの形で導入されています。そうした英語の導入の特徴は(そして、最近の中学校での教科書も大体同じような観点が打ち出されていますが)「英語を使う場面の設定」に従って必要な語彙と表現を導入すること(いわゆる、コミュニカティブ・アプローチ)で、場面に関係なく「文法」を教えることはしない、という方針が貫かれています。つまり、英語を使うことの楽しさから入り、文法は二の次、というわけです。

 話は飛びますが、私は、日本の大学へ戻って来る前に、アメリカの大学で日本語を教え、年度を違えて全く異なるアプローチで日本語を導入した経験を持っています。一つは、いわゆる「文法訳読法」に近いもので、「あなたは何を食べますか」「私はお寿司を食べます」など、省略が多い日本語では実際にはほとんどその通りには言わないような、しかし文法規則に則った表現を、英語への訳読を意識して導入する方法。もう一つは、話すことを中心に、終助詞の「よ、ね、か」を使って、「食べますか」「食べますね」「食べますよ」など、主語や目的語を省いても会話として成り立つ表現から教え、単語が足りないなら「studyしますか」のような英語を交えることも許すという導入法です。その結果、1年後には、全く異なるタイプの学生が育ちました。前者の学生は、文法に意識が集中するせいか「話すことは苦手」、でも、作文や読解へはスムーズに移行してくれました。後者の学生は、たった1ヶ月余りで、電話で話すことも怖がらない、文法の授業でも、とにかく日本語でチャレンジしてみる、という「話すのが大好き」な学生となりました。ただ、彼らは、2年次、3年次で、新聞などを読む、高度な作文を書く、という課題に対応するためには、その時点でかなり意識的・体系的に文法を学び直すことが必要でした。

 さて、日本での英語教育、教師は、どのような学生を育てたいのでしょう? そして、学生は、どのような英語の使い手になりたいのでしょう? Part 2では、英語教育と文法、言語学の観点から、この問いを考えてみたいと思います。

長谷川信子先生の最新刊

2008年8月15日 掲載


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