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単純な文ほど難しい

西山佑司(明海大学教授)

 今から40年以上も前のことであるが、生成文法の考え方が日本でもすこしずつ浸透しはじめた頃、私は、ある高名な言語学者から「チョムスキー派のやっている仕事はThey are flying planes. とかJohn is easy to please. といった単純な文ばかり扱っていてあまり面白くないね。実際の人間の生きた言葉はそんな単純なものではないよ。」と言われたことがある。私はそれを聞いて、なるほど、生成文法に対してそのような誤解もあるのかと驚き、それをヒントにして、当時私が担当していた言語学講座の試験に「上のような見解についてあなたの考えを自由に述べよ」といった課題を出したものである。

 いうまでもなく、文法学者は、文の文法性や文法構造に関心をもつ。その場合の「文法性」という概念は、文の長さとは無関係である。長大で複雑な文であっても完璧に文法的な文もあれば、簡単な文であっても非文法的な文がある。文の長さや複雑性とは無縁のこの「文法性」を説明するためには壮大な理論が要求される。

 自然言語の文のなかで、もっとも単純な構文は、「AはBである」(“A is B”) のようなコピュラ文であろう。コピュラ文の動詞「である」(‘is’)は「繋辞」と呼ばれるように、AとBとをつなぐ役割しか果たさず、意味的実質を欠いている、とこれまで考えられてきた。私はこの10数年、コピュラ文に関心をもち研究しているが、一見、単純なこの構文が意味理論的には実に複雑な構文であることがわかってきた。私の研究では、コピュラ文にはすくなくとも6通り以上の意味があること、その多様な意味構造には、A およびBに登場する名詞句の指示性・非指示性という概念が深く関与していることなどが明らかになった。「私は社長だ」、「私が社長だ」、「社長は私だ」、「社長であるのは私だ」の間の微妙な違いを把握するためには「は」と「が」の問題や「分裂文」と呼ばれる強調構文の問題に深く立ち入らざるをえない。そのうえ、コピュラ文の分析は、「Aがある」(存在文)、「Aが変わる」(変化文)、さらには日本語学で議論の多い「象は鼻が長い」構文の構造に対しても、新しい光を投げかけるのである。そればかりでない。「私は犯人を知っている」は「私は[誰ガ犯人デアルか]を知っている」と読むことができるが、この読みにもコピュラ文構造が関与しているのである。私が、コピュラ文のような単純な文と格闘してきたのもそれが言語の説明理論に貢献できると信じているからにほかならない。もちろん、コピュラ文の全貌の解明にはまだまだほど遠い。「単純な文、あなどるなかれ」である。

西山佑司先生の最新刊

2008年11月7日 掲載


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