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連載: 「痛み表現」について 3

安井稔(東北大学名誉教授)

5. 翻訳におけるオノマトペの扱い

 もう一つだけ例を挙げることにしよう。「その庭はピーピーチューチューさえずる小鳥でいっぱいだった」というオノマトペを含む表現は、“The garden was full of whistling(or chirping) birds”という表現で表すことができる。注意すべきは、「チューチュー」「ピーピー」に当たるwhistle, chirp がそのままの形で動詞として語彙化され、しかも、現在分詞の形をとって形容詞的に用いられているという点である。現在、過去、過去分詞という語形変化も可能であり、一般動詞のsing( sang, sung, singing) などと全く同じ資格で英語の語彙体系の仲間入りをしているのである。

 日本語にはこれがない。日本語のオノマトペはすでに触れるところがあったように、自然界の音響に対して「言語という鏡」を向け、日本語の音結合が許す限りの忠実さで、それを写そうとするものである。語彙化という操作過程はほとんどないといってよい。その代わり、いわば小回りが利く。例えば、さえずり始めたウグイスが「チャッチャッ」といっていたかと思うと、「ケキョ」というようになり、それがやっと「ホー ホケキョ ケキョ ケキョ」というようになった、などと言うとき、英語で言えとなったらお手上げであろう。

 日本語のオノマトペが、いわばはだかのまま放り出されているのに、違和感を伴うことなく文の一部に組み込まれうるのはどうしてであろうか。それは、日本語のオノマトペが、少なくとも原理的には、「ピーピーと鳴いていた」のように、「(オノマトペ)+と」の形で用いられるからである。「と」の前には、引用符に囲まれた部分(「…」)があると思えばよい。この引用符の中には、いかなる無意味音節語も、外国語も、オノマトペも、すべて入りうることを忘れてはならない。

 日本語におけるオノマトペは、現在でも依然として自然音の模写という特性を保持しているのに対して、英語におけるオノマトペは、すでに語彙化されている部分が大きく、その分だけ、自然音の模写という特性は失われている。踏み込んだ言い方をするなら、語彙化されている英語のオノマトペは不自由を強いられていることになる。

 このように見てくると、文学作品の日・英翻訳、英・日翻訳においても、オノマトペの扱いは新しい視点を与えられることになるであろう。英・日翻訳の場合で言えば、英語の原文にはオノマトペらしきものがないのに、対応する日本語訳にはオノマトペがしばしば現れるという指摘は、従来もなされてきた。そういう際の日本語におけるオノマトペの使用は、なめらかな日本語と引き換えに、「安易で堕落した翻訳」を招来するものとして、批判の対象になることもあったと思われる。逆の場合、例えば、森鴎外の『即興詩人』におけるように、日本語訳においてオノマトペを用いない場合、それは翻訳における格調の高さを保持するための見識を示すものとして讃えられることもあった。

 けれども、このような評価には、俗に抵抗しようとしてかえって自らの道を踏み外しているという趣がある。英語においては語彙化が進んでおり、日本語はそうでないという面がある以上、英語にはないオノマトペが日本語では出てくるというのは、むしろ当然であろう。

 翻訳というのは、語句を語句で置き換えるという作業ではない。英語の文が与えられたら、それを一度場面に戻し、その場面に日本語でならどう言うかということを求める作業である。Good morning! を「よい朝になりますように」と訳さずに「お早うございます」と訳すのはこのためである。問題は、日本語訳の中におけるオノマトペの使用自体にあるのではなく、それがどれだけ適切に用いられているかということにかかってくる、とすべきである。

6. 痛み表現とメタファー

 意を尽くすには至らなかったが、痛み表現はメタファーであること、痛み表現にはオノマトペも含まれていること、さらに、痛み表現は日・英でかなりの差があることなどについて触れてきた。こういう痛み表現に対する様々な切り口は、どのように絡み合っているのか。また、どのような整理が可能であるのか、もう少し考えてみよう。

 こういうことを考えてみる気になったのは、やはり、前出の丸谷才一・中井修「賢い患者は日本語が上手」という対談に触発されてのことであった。この対談のタイトルは全く正しい。賢い患者というのは、医者の求めている質問に、そして、その質問だけに過不足なくことばを選んで答える患者のことである。これは、グライス(H. P. Grice)の「協調の原理」にそのままのっとっている答え方でもある。

 困るのが痛み表現の場合である。痛みは計量化を許さない。視力表、体温計、血圧計など、みんな役に立たない。虹の七色に相当するような、階層をなす七種類の痛み表現でもあればよいのであるが、それもない。困った患者は「ずきずき痛む」とか「しくしく痛む」などと言う。これが丸谷氏の気に入らない。「こういうオノマトペを多用するから、日本人の患者の病状は医者に分かりにくい」という趣旨の発言をしておられる。欧米の患者はオノマトペを多用しないから、その病状は分かりやすいというのであろうか。また、オノマトペでいけないというなら、他のどのような表現を用いればよいというのであろうか。こういうことに、肯定的な答えは期待し得ないはずである。丸谷氏の勇み足としか言いようがない。どうしてか。

 痛みに限って言うと、決定的に重要なのは、それが体の内部で生じている現象であるという点である。目に見えず、耳に聞こえない。手で触ることもできないものであるから、直接的、具象的記述を許さない。となると、間接的な比喩的表現を用いざるを得ないということになる。「刺すように痛い」なら直喩(simile)、「ずきずき痛む」なら隠喩(メタファー、metaphor)で、オノマトペでもあることになる。

 すべての痛み表現は、原則としてメタファーである。少なくとも比喩的である。すべての痛みの表現がオノマトペであるということはない。「しみる痛み」「骨盤の中をあちこち針で刺されるように痛い」などは、痛み表現ではあっても、オノマトペではないからである。

 けれども、オノマトペ表現自体が、語彙化の進んでいる英語におけるよりも、日本語におけるほうが豊かであることを思えば、痛み表現の総体は、英語におけるよりも日本語におけるほうが豊かであることが予測される。これを裏付ける実証的なデータを持ち合わせているわけではないが、語彙化された痛み表現が、オノマトペ的メタファー表現に比べ、生彩を欠いていることは否めないであろう。

安井稔先生の最新刊

2006年10月6日 掲載


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