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連載: 「痛み表現」について

安井稔(東北大学名誉教授)

1. 英語の傷は「しみる」ことがない

 アメリカで歯医者に行った。薬をぬられ、思わず顔をしかめた。と、“Does it hurt you?”ときた。この場合、日本語でなら、ほとんど100パーセント「しみますか」である。今度はデパートへ行った。靴の売り場である。試しばきで、ちょっときついかなと思っていると、“Does it hurt you?”ときた。日本語なら、「きついですか」というところである。

 ともかく、アメリカって大ざっぱなんだなぁ、という思いを深くした。が、この思いは正しいのであろうか? 限られたこれだけの例から、そのような断定を下すことはできない。状況次第で日本語のほうが大ざっぱであるという場合も当然あると考えられる。けれども、これだけは動かない、と考えられる点もいくつかある。

 まず、英語には「しみる」という痛み表現が欠落しているという点である。が、こう言い切られると、反論される向きもあろう。まず、歯医者自身、薬が歯にしみて痛いと感じている患者に向かって“Does it hurt you?”と言っているではないか。また、和英辞典を引くと、「しみる」に対し、smart, stingなどの語が当てられているではないか、と。

 それはその通りである。が、そうであっても、英語にこの痛み表現が欠落していることに変わりはない。どうしてか。確かに、「しみる痛み」という状況を与えられている場合、それを記述する英語の表現はある。が、それらは「しみる」という形のものではない。

 「しみる」というのは、「吸い取り紙にインキがしみこんでいくように、痛みが組織の中に浸透し、広がってゆく」という含みがある。けれども、こういう含みが、英語の対応表現には全く欠けているのである。

 本来、「しみる」にあたる英語は“permeate”であるが、この語が痛み表現に用いられることはない。日本語と英語とでは「痛みの形」が異なるのである。

2. 痛みの形

 そもそも痛みに形はあるのか。これに対する答えはイエスでもありうるし、ノーでもありうる。もしも、「形」が視覚や触覚によってとらえられるものの外見的な姿ということであるなら、痛みに形はないことになる。痛みは目で見ることも手で触ることもできないからである。

 頭が痛いというとき、頭に触ってみることはできる。が、頭は痛みが生じている場所であって、痛みそのものではない。「痛み」というのは、考えてみると実に不思議な感覚である。

 「痛みには天気(weather)に似たところがある」とハリデー(M. A. K. Halliday)は言う。説明は特にない。が、これは言い得て妙である。頭が痛いとき、頭が「一面に」痛いのである。どこから始まってどこで終わるというようなことはなく、ただ「一面に」痛いのである。例えば、雨がどこから始まりどこで終わるともなく降っているように。

 では、痛みにも形はあるとする主張のほうはどうなるのであろうか。目で確かめることができる姿がないとすると、その形は心でとらえるものであることになる。そして、それならある。例えば、患部が「ずきんずきん痛む」という場合、その痛みが脈拍に同調する痛みであり、「脈を打っているような」という形をもっている、と考えることができる。この場合、偶然、英語にもa throbbing painという対応形がある。

 同様に、「刺すような痛み」には、「肌に針を刺す」という形が考えられている。英語のa stinging painも同じであろう。が、英語の痛み表現と日本語の痛み表現とが一対一の対応関係を示しているのは、むしろまれな場合である。前述の「(薬が歯に)しみる」の場合がそうであったし、「(おなかが)しくしく痛む」などの場合も同様である。「しくしく痛む」というのは「絶えず鈍く痛むさま」のことであるが、もとにある形は「しおれて泣くさま」であろう。

 ここで、「心の中の形」と言っているのはメタファーと言ってもよいものである。「しみますか」の例で言うなら、「患部にある種の痛みがあり、うまく言い表せない」という場合、それを言い表すのに、「吸い取り紙にインキがしみてゆく様」がぴったりだと思い、「(痛みが)しみます」と言えば、それがメタファー表現である。

 「痛み」がある場合、ただ「痛い」と言って済ますことができるなら、メタファーは不要である。“Does it hurt you?”がそれである。が、もう少し細かに心の中の形を伝えようとすれば、メタファーの力を借りなければならないことになる。それは、メタファーによる新しい言語化である。

 他方、いっさいの経験は言語化されない限り経験としては存在し得ない、ということがある。したがって、英語の中に「しみる」に対応する痛み表現がないなら、英語には、そして、英語国民には、「しみる痛み」が存在しないことになる。奇妙なことだが、これは論理的必然である。我々は「春の小川はさらさら流れる」と信じているが、イギリス人やアメリカ人に「さらさら流れる小川」は存在しないというのと同様である。

安井稔先生の最新刊

2006年8月4日 掲載


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