「誤用」と「ことばの変化」が意味するもの

南 雅彦(サンフランシスコ州立大学教授)

 ことばの学習というのは、それが母語であれ外国語であれ、目標言語に内在する規則に関して絶えず仮説・検証を行なっているのだ、とたびたび痛感する。英語を母語とする子供は、“go”の過去形として“went”ではなく、成人母語話者は絶対言わないので聞いたことがないはずの“go-ed”と言ったりする。子供は「小さな言語学者」と例えられたりするが、言語規則の習得は試行錯誤の繰り返しであり、誤用を産出しながら習得を進めているからである。私はサンフランシスコに来る前、マサチューセッツ州ボストン近郊に10年間住んでいたが、ある日、地元の小学校に入って間もない娘と道を歩いていると、娘が木を見ながら突然「なんでもいっぱいあると“s”がつくんだよ。だから、葉っぱが『いっぱい』あると“leaves”って言うんだよ」と教えてくれた。家庭では日本語ばかり話していて、英語に触れるのは学校だけだったが、娘はことばの規則を自分で見つけ出して得意げだった。私は娘の「いっぱい」ということばが気になり、尋ねてみた。「じゃあ、2、3枚だったらどう言うの」娘はちょっと考え込んで、「2、3枚だったら“leave”かな」と答えた。

 外国語学習の場合、教室でことばの規則を説明されることが多いので、置かれた状況は少し異なるのかも知れない。それでも、外国語学習者の頭の中では絶えず規則の仮説・検証が行われている。私は大学院レベルでは、認知意味論・語用論・言語地理学(方言地理学)などを含む『社会言語学セミナー』と、言語心理学・応用言語学・言語教育学などが中心の『第2言語習得セミナー』の他、翻訳や通訳の講座を担当している。同時に、日本語専攻の4年制学部生に初級から上級まで会話・作文・文法やビジネス日本語などのクラスも教えている。初級日本語のクラスでは「『待ちます』とか『持ちます』などの5段活用の動詞(u-verb)を辞書形にしなさい」という指示に対して、「待ち・る」とか「持ち・る」とする学習者が必ず出てくる。こうした誤用は「見・る」や「食べ・る」など1段活用の動詞(ru-verb)の辞書形が「る」で終わることからの類推に起因していると思われる。例えば、「なまける」という意味の「サボる」ということばは“sabotage”という英語のことばが語源だが、「サボ」に「る」をつけて合成したことばである。さらにレストランで外食することを「ファミ・る」(ファミリー・レストランから)とか「ガス・る」(レスラン「ガスト」から)という若者ことばもある。こう考えると「待ち・る」や「持ち・る」という類推だってなかなかのものだと思ってしまう。語学教師にとっては、学習者の誤用から原因の背景を推測することで、対処・指導法を考えることができるので、誤用に注目することは非常に重要である。

 ところで、日本語を母語とする4歳児は(形容動詞・ナ形容詞の)「好き」の否定形の「好きじゃない」ではなく、イ形容詞の活用で「好きくない」と言ったりする。これは「好き(suki)」が“i”で終わっているからかもしれない。日本語学習者も同じ誤用をするので、これは母語、外国語習得に関わらず普遍的な誤用だと考えて差し支えないだろうし、言語習得が、母語であれ外国語であれ、規則の仮説・検証の試行錯誤であることを示唆してくれる好例でもある。ここで断っておかなければならないのは、今は「好きくない」(とか、さらには「違くない」)と言う成人母語話者がいるという事実であり、どんな言語でも規則は簡略化されてゆくということも同時に示唆していると考えられる。今後、否定形「~くない」の前にイ形容詞(例:おいしい)ばかりでなくナ形容詞(例:きれい)も入るという単純化された規則が遍く受け入れられた場合、言語習得の過程にある子供の、そして日本語学習者の誤用が誤用でなくなる日が来るのかもしれない。このように規範文法ではなく、記述文法の視点からことばとその変化を考えるといろいろなことが見えてくる。

2006年10月27日 掲載