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連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

2. ことだまと認可表現(PC表現)

 そういう次第ではあるけれども、英・米においても、ことだまと部分的には重なっていると考えられる言語現象がある。ここで、認可表現と呼んでいるものがそれである。認可表現というのは、PC表現に対する訳語のつもりである。PCというのは、Politically Correct(政治的に正しい)の略であり、新聞、雑誌、ラジオなどで用いても、社会的に非難を浴びたりすることのない表現のことである。

 つまり、「使っても大丈夫」という、いわば、お墨付きをもらっていると考えられる表現のことである。日本語で、「政治的に正しい」といっても、使いものにならないので、「認可表現」としたのである。

 性差別撤廃を標榜している場合が圧倒的に多く、かなり広く用いられている例の一つが、chairman(議長、(大学の)学科主任)にとって代わったchairpersonである。女性の学科主任が珍しくない時代になって、男性専用語の感のあるchairmanをchairpersonに衣がえしたということである。

 目の敵にされているのは、-manという語形である。つまり、ことばをいじっているのである。historyには、男性人称代名詞の所有形hisが含まれているから不可であり、herstoryにすべきであるとする論さえある。それを笑ってばかりもいられないのである。アメリカの大型辞書の中には、herstoryを見出し語として載せているものもあるからである。

 駆逐されるべきは、とりあえず、-manという語形である、となると、それは、一種の「ことば狩り」であるとしてよい。ことば狩りの対象となる語は、その使用が、社会的に好ましくないとされている語である。その背景的状況は、もちろん異なっているけれども、避けるべき語を抱えているという点において認可表現とことだま、特に災いを招くとされることだまとは、互いに無縁であるとはいえないであろう。

 いずれにせよ、ことば狩りというのは、まことに空しい営為である。それは、文化の破壊につながる。これは、決して誇張ではない。一般に、気づかれにくいというだけのことである。それは、町名変更のような場合にもみられる。共通なのは、「ことばが失われる」という点である。

 ことばがなければ、文化は成立しない。「無形文化財」という語がある。伝統芸能や工芸技術に関して用いられるが、無形であるからといって名前がないことを意味するものではない。それぞれの文化財には、みんな名前がついているのである。当たり前のことであるが、見過ごされやすいことに変わりはない。

 ここで、ことば、あるいは、ものの名前が持つ重要性を納得させてくれる短い対話を、次の(1)、(2)に示しておくことにする。

  (1) A: 「この世で一番大きなものは何ですか。」
     B: 「大宇宙でしょう。」
     A: 「もっと大きなものがあるんじゃないですか。」
     B: 「それは、何という名前のものですか。」
     A: 「……」<沈黙>
  (2) A: 「この世で一番小さなものは何ですか。」
     B: 「素粒子ではないですか。」
     A: 「もっと小さなものがあるんじゃないですか。」
     B: 「中性子とか、陽子というものではないですか。」
     A: 「もっと小さなものがあるんじゃないですか。いわば、指の間から、こぼれ落ちているようなもの。」
     B: 「そうかもしれませんが、それは何という名前のものですか。」
     A: 「……」<沈黙>

これらの場合(1A)、(2A)の問いに対する正しい答えは、やや禅問答めくが、「ことば」、あるいは、「ものの名前」である。「この世における最も大きなもの」、「この世における最も小さなもの」は、それらを示す名前がなければ、存在するにいたらない、ということである。

 困ったことに、認可表現に関する潮の流れは、太平洋を越えて、わが国にまで押し寄せている。「スチュワーデス」(stewardess)は女性専用の性差別用語であるから、「客室乗務員」(flight attendant)とすべきであるとする議論などは、箸にも棒にもかからない茶番である。-essが女性語を示す接尾辞であるというのは正しいが、日本語である「スチュワーデス」のどの部分に、いつ女性専用語であることを示す形が、埋め込まれたというのであろうか。

 「看護婦」の仕事をする「(国家試験に合格している)男性」を「看護師」という。そこまではまあよいが、最近では、女性の看護婦も、「看護師」と呼ばれるらしい。「看護婦」は、性差別表現であるから、廃用にされなければならないというのであろう。「婦長さん」は、「師長さん」になるのであろうか。

 そういうことばいじりは、「看護婦」とか、「婦長さん」ということばによって、支えられてきた文化的遺産の消失を意味するということに、思いをいたすべきである。その分だけ、日本の文化的遺産の総体は、間違いなく、やせ細ってゆくのである。

 しかも、女性の入院患者などの場合、看護の担当者が、女性であるのか、男性であるのか、ということが、どうでもよいことであるというはずはないであろう。そんなことは、一顧にも値しない、と性差別表現撤廃論者は考えているのであろうか。

 ついでながら、「女優」(actress)という語が、日本においても、アメリカにおいても、性差別表現として非難されることをまぬがれているのは、性差別表現撤廃論者が抱えている重大な矛盾の一つである。「女優」(actress)というのは、性差別表現であるとはいっても、疑いの余地なく、女性の優位を示している語である。そういう語は、性差別表現の仲間からは、外れるのであろうか。

 やや微妙な立場に置かれているのが、Queenである。motherやsisterの場合は、自然の性を示す語として、いわゆる性差別表現のらち外に置かれ、問題は、生じない。つまり、男性でも、女性でも、その役目はつとまる、ということはない。が、女性であっても、王位を継承すれば、王様、つまり女性王様となるはずである。「女性天皇」というがごとしである。ところが、Queenは、性差別表現であるから、廃止すべきであるとする法令でも出れば、イギリスでは暴動が起きるであろうといわれている。Queenという語は、性差別表現であるかないかにかかわらず、掛け替えのない文化遺産であるという、何よりの証拠となるであろう。

安井稔先生の最新刊

2007年6月1日 掲載


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