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連載: 「ことだま」というもの

安井稔(東北大学名誉教授)

5. よみがえる「ことだま」

 最近の脳科学の教えるところによると、脳の中には「ミラー細胞」と呼ばれる細胞があるという。少しくだけた言い方をするなら、「さるまね細胞」、最近はやりのことばを使うなら、「ヴァーチュアル細胞」と呼んでもよさそうに思われる細胞である。

 ホームランバッターの打った打球が、高々とフェンスを越えて飛んでいったとする。観客は思わず、ぐっと手を握りしめるのではないか。それは、脳内のミラー細胞が打者の所作を心の鏡に写し、いわば、後追いをするからである。思わず手を握りしめたのは、心の中の後追い行動が、思わずひょいと外部的身体行動に露呈したものであるとみることができる。

 大工仕事の見習いや、スキーの初心者が、それぞれの技術を身につけようとするような場合は、徹頭徹尾、指導者の後を追い、その所作をなどろうとする。それができるのは、まさにミラー細胞あるがためであるとされる。

 ことばの世界に入るとどうなるであろうか。この場合も、ミラー細胞なしには、ことは始まりようがないであろう。踊りを習う人の場合、ミラー細胞の働きは、身振り手振りという形となって現れるが、ことばの場合、それはあるかなきかの「心の身振り手振り」とでもいうべきものの形をとっているといってよいであろう。

 この種の意識は、外国語の学習、特にその初期段階においては、比較的はっきりしているといえるかもしれない。というより、初期段階の場合、活性化されたミラー細胞の欠如は、学習不能の状態を意味することになるであろう。

 「まなぶはまねぶなり」という教えは、この間の事情をとらえて見事である。「まねる」ことは、「さるまね」などといって、しばしば軽蔑の対象とされるが、ミラー細胞の発達は、むしろ霊長類のみにみられる特権であると考えられる。「発明、発見」を「まねる能力」と対比させ、「まねる能力」を一段低いものとしておとしめるのが一般的な風潮であるが、「まねる能力」はむしろ「発明、発見」に至るための前提をなす必要条件という位置づけを与えてしかるべきものである、と考えられる。

 相手のしていること、あるいは、相手のいっていることをそのままなどろうとするミラー細胞がなかったとしたら、およそ、学習とか、理解ということはすべてストップしてしまうであろう。ミラー細胞が、いわば再帰的に働く場合も当然考えられる。

 それは、自分自身がどこかで出会ったことばを、いわば、そしゃくし、反すうすることを意味する。例えば、「あしたは、きっと何かいいことがある」と、繰り返し、繰り返し、心の中でなどったとする。

 そうすると、実際によいことが起こらなくても、心自体はなんであれ、よいことを期待し、起こりしだい、それを受け入れる心の構えが整ってきているということはいえるであろう。

 さらに、「よいこと、悪いことを問わず、自分に起きたことには、すべて、ありがたいと思って、感謝する。」ということを折りあるごとに、心の中でなどるとしてみよう。すると、思いがけなく、それまで暗い負の世界と写っていたものが、たちまち反転して、別の世界となることに驚くであろう。

 こうなると、それは全くことだまの世界である。個々人の心の中に、「ことだまのさきわう国」が現出しているという感がある。もちろん、すべてが簡単にうまくゆくとは限らないが、自分の体質に合った「天をも動かすことば」を捜し求め、それらの導きにしたがって生きるなら、よりよき生を全うする道につながるのではないか。

 ただ、留意すべき点が二つある。一つは、ことだまの世界が未来志向の世界である、という点である。西の海に沈もうとしている太陽を、東の空に呼び戻すことは、念力を使ったとしても、不可能であるということである。

 もう一つの留意すべき点は、心の中の世界と外界とを混同してはならない、という点である。「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」という心境にあっても、火中に身を投ずれば、焼死するのである。無念夢想という禅の極地にあっても、それが線路上のことであれば、死を免れることはできない、ということである。このほとんど自明といってもよい事実が見落とされている論議は、決して少なくはないのである。ミラー細胞が、いかに強力なものであるにしても、それ自身の限界を持っていることを忘れてはならないということである。

安井稔先生の最新刊

2007年10月12日 掲載


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