「私」の言語学

沖 裕子(信州大学教授)

 小学校の木造校舎二階にあった古い立派な図書室には、ぎっしりと本が詰まっていた。昭和三十年代後半の、長野県松本、旧市内である。

 午後の最後の授業が終わり、少し傾いた陽射を感じながら、重い木の引戸を開けて中に入ると、一斉に本の背がこちらを見るような気がしたものだ。書架の前に佇んだままもどかしく頁を開くと、声というもののないことばがひしめいて、次から次へと世界が私の前を通りすぎてゆくのだった。

 幼い頃から、ことばというものが何とは無しに不思議でならなかった。日々の暮しのなかで父が語ることばはたいへん分りやすく、聞いていると、どんな物事もしっかりと輪郭をなして眼前に見えるようだった。母が語ることばは声に張りがあって、空や雲や花や風を瞬時にとらえ、美しく短く表現した。妹とはたった二歳しか違わなかったけれど、私のことばとはほんの少し違っていて、街に育つ人の匂いがした。

 私は、たくさんのことばに囲まれて幸せであったが、はたして「私」のことばは一体何だろう、どういうものだろうと、いつも考えていた。結局、分らないことの気持悪さに耐えられなくて、「私」のことばを追い続けて今に至ったことになる。

 大学生になって触れたその時代の言語学は、「私」のことばが何であるかには関心を持たなかった。日本語を研究することと、「私」のことばを研究することは、異なっている。日本語には地域方言や社会方言があり、外国人が第二言語として習得した日本語も含まれている。そこでは私自身の母方言を研究してみたものの、しかし、「私」のことばは見えてこなかった。なぜなら、そのとき「私」は、松本方言を使うと同時に、東京方言にも接し、話しも書きもし、様々な文体を操って暮らしていたからである。現代では、たいていの人がそのように暮らしているであろう。

 「私」のことばは、人生と同様一回限りのものである。ラングと呼ばれるあなたと私に共通する言語体系のあり方のみを探求しても、多様な資源を駆使して創造的に産み出していく「私」のことばの説明にはつながらない。それには、談話論という新しい領域の開拓が必要であった。私はいま得た、この「私」の畑を、もう少し耕してみたいと願っている。

2006年8月11日 掲載