<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?><!-- generator="wordpress/ME for XOOPS 0.5.0RC-Final" -->
<rdf:RDF
	xmlns="http://purl.org/rss/1.0/"
	xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
>
<channel rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php">
	<title>言語学出版社フォーラム</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php</link>
	<description>言語学コラム</description>
	<dc:language>ja</dc:language>
	<dc:date>2008-07-22T11:43:19+09:00</dc:date>
	<dc:creator>admin&#64;ge&#110;&#103;&#111;&#115;f.com</dc:creator>
	<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.kowa.org/?v=0.5.0RC-Final"/>
	<admin:errorReportsTo rdf:resource="mailto:&#97;dm&#105;&#110;&#64;&#103;eng&#111;sf.co&#109;"/>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<sy:updateBase>2000-01-01T12:00+00:00</sy:updateBase>
	<items>
		<rdf:Seq>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=121"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=120"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=119"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=118"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=117"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=116"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=115"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=114"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=113"/>
					<rdf:li rdf:resource="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=112"/>
				</rdf:Seq>
	</items>
</channel>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=121">
	<title>「言語学への誘い」（1）</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=121</link>
	<dc:date>2008-11-21T09:29:28+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;d&amp;#109;&amp;#105;&amp;#110;&amp;#64;g&amp;#101;n&amp;#103;&amp;#111;&amp;#115;f.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>稲田俊明</dc:subject>	<description>	稲田俊明（九州大学教授）
	　読書案内に、この本を読むと、「地球の裏側のある町の路地裏を掘っていたら、いつの間にか自分の家の庭にポッカリ開いた穴に通じていることに気づかされる」という解説がありました。言語研究も正にそのようなものです。逆に、自宅の物置をごそごそ探していたら地球の裏側の教会にいるのに気がついた、ということも稀ではありません。
	　言語学を知らない学生と一緒に、次のような疑問について考えたことがあります。博多ラーメンの麺のお代わりは「替え」（kae）＋「玉」(tama) で「替え玉」(kae-dama) ですが、玉の輿の逆は「逆玉」(gyaku-tama) で、[gyaku-dama] とならないのはなぜか？ 少し高度な疑問としては、「たらい」(tarai) は「手洗い」(te-arai)から、「嘆き」(nageki) は「長息」(naga-iki) から変化したものだが、このような音変化には規則があるのだろうか？ 複合語の意味について、「猫じゃらし」や「鼠取り」の意味はすぐ分かるが、「猫またぎ」の意味は間違えるのはなぜか？ 日・英語の違いについて、Who ate what?（誰が何を食べたの）とは英語で言えるが、Who died why?（誰がどうして死んだの）とは、英語の純粋の疑問文としては言えない。しかし、この違いに日本人英語学習者は気づかないのはなぜか？
	　最初の課題は「連濁」の応用問題です。複合語の後部要素の第1子音は濁音になりますが、「逆玉」(gyaku-tama) では、そうなりません。これは、言語が表面的形式だけではなく、“こころの表示”を持つことを示す重要な事実です。表現は省略されても、人間のこころには、あるべき姿が残像のように残ります。「逆+玉」は、表面的には（野球のピッチャーが投げる）「逆+球」と変わらず、[gyaku + dama] となるはずです。しかし、こころの表示では、「逆+玉（の輿）」となると考えれば、「逆球」と「逆玉」は同じではありません。
　
　言語学には、問題を科学的手順を踏んで解いていく楽しさと醍醐味もあります。Prentice Hall社から出版されているアメリカの高校生用の生物の教科書では、冒頭で「科学とは何か」「科学的方法とは何か」が解説されています。科学的方法とは、(i) 事実を観察する、(ii) 仮説を立てる、(iii) 仮説を検証する、(iv) 反証されない仮説を残し結論とする、と書かれています。次回は、具体例を取り上げながら、言語の問題を科学的方法で解決することの醍醐味を述べます。
	稲田俊明先生の最新刊
	2008年11月21日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>稲田俊明（九州大学教授）</strong></font></p>
	<p>　読書案内に、この本を読むと、「地球の裏側のある町の路地裏を掘っていたら、いつの間にか自分の家の庭にポッカリ開いた穴に通じていることに気づかされる」という解説がありました。言語研究も正にそのようなものです。逆に、自宅の物置をごそごそ探していたら地球の裏側の教会にいるのに気がついた、ということも稀ではありません。</p>
	<p>　言語学を知らない学生と一緒に、次のような疑問について考えたことがあります。博多ラーメンの麺のお代わりは「替え」（kae）＋「玉」(tama) で「替え玉」(kae-dama) ですが、玉の輿の逆は「逆玉」(gyaku-tama) で、[gyaku-dama] とならないのはなぜか？ 少し高度な疑問としては、「たらい」(tarai) は「手洗い」(te-arai)から、「嘆き」(nageki) は「長息」(naga-iki) から変化したものだが、このような音変化には規則があるのだろうか？ 複合語の意味について、「猫じゃらし」や「鼠取り」の意味はすぐ分かるが、「猫またぎ」の意味は間違えるのはなぜか？ 日・英語の違いについて、Who ate what?（誰が何を食べたの）とは英語で言えるが、Who died why?（誰がどうして死んだの）とは、英語の純粋の疑問文としては言えない。しかし、この違いに日本人英語学習者は気づかないのはなぜか？</p>
	<p>　最初の課題は「連濁」の応用問題です。複合語の後部要素の第1子音は濁音になりますが、「逆玉」(gyaku-tama) では、そうなりません。これは、言語が表面的形式だけではなく、“こころの表示”を持つことを示す重要な事実です。表現は省略されても、人間のこころには、あるべき姿が残像のように残ります。「逆+玉」は、表面的には（野球のピッチャーが投げる）「逆+球」と変わらず、[gyaku + dama] となるはずです。しかし、こころの表示では、「逆+玉（の輿）」となると考えれば、「逆球」と「逆玉」は同じではありません。<br />
　<br />
　言語学には、問題を科学的手順を踏んで解いていく楽しさと醍醐味もあります。Prentice Hall社から出版されているアメリカの高校生用の生物の教科書では、冒頭で「科学とは何か」「科学的方法とは何か」が解説されています。科学的方法とは、(i) 事実を観察する、(ii) 仮説を立てる、(iii) 仮説を検証する、(iv) 反証されない仮説を残し結論とする、と書かれています。次回は、具体例を取り上げながら、言語の問題を科学的方法で解決することの醍醐味を述べます。</p>
	<p><strong>稲田俊明先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-7589-2106-0%20978-4-469-14213-6&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> <script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script> </p>
	<p><font color="#999999">2008年11月21日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=120">
	<title>単純な文ほど難しい</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=120</link>
	<dc:date>2008-11-07T09:54:25+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;a&amp;#100;&amp;#109;&amp;#105;n&amp;#64;gen&amp;#103;&amp;#111;&amp;#115;&amp;#102;.co&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>西山佑司</dc:subject>	<description>	西山佑司（明海大学教授）
	　今から40年以上も前のことであるが、生成文法の考え方が日本でもすこしずつ浸透しはじめた頃、私は、ある高名な言語学者から「チョムスキー派のやっている仕事はThey are flying planes. とかJohn is easy to please. といった単純な文ばかり扱っていてあまり面白くないね。実際の人間の生きた言葉はそんな単純なものではないよ。」と言われたことがある。私はそれを聞いて、なるほど、生成文法に対してそのような誤解もあるのかと驚き、それをヒントにして、当時私が担当していた言語学講座の試験に「上のような見解についてあなたの考えを自由に述べよ」といった課題を出したものである。
	　いうまでもなく、文法学者は、文の文法性や文法構造に関心をもつ。その場合の「文法性」という概念は、文の長さとは無関係である。長大で複雑な文であっても完璧に文法的な文もあれば、簡単な文であっても非文法的な文がある。文の長さや複雑性とは無縁のこの「文法性」を説明するためには壮大な理論が要求される。
	　自然言語の文のなかで、もっとも単純な構文は、「AはBである」(“A is B”) のようなコピュラ文であろう。コピュラ文の動詞「である」(‘is’)は「繋辞」と呼ばれるように、AとBとをつなぐ役割しか果たさず、意味的実質を欠いている、とこれまで考えられてきた。私はこの10数年、コピュラ文に関心をもち研究しているが、一見、単純なこの構文が意味理論的には実に複雑な構文であることがわかってきた。私の研究では、コピュラ文にはすくなくとも6通り以上の意味があること、その多様な意味構造には、A およびBに登場する名詞句の指示性・非指示性という概念が深く関与していることなどが明らかになった。「私は社長だ」、「私が社長だ」、「社長は私だ」、「社長であるのは私だ」の間の微妙な違いを把握するためには「は」と「が」の問題や「分裂文」と呼ばれる強調構文の問題に深く立ち入らざるをえない。そのうえ、コピュラ文の分析は、「Aがある」（存在文）、「Aが変わる」（変化文）、さらには日本語学で議論の多い「象は鼻が長い」構文の構造に対しても、新しい光を投げかけるのである。そればかりでない。「私は犯人を知っている」は「私は［誰ガ犯人デアルか］を知っている」と読むことができるが、この読みにもコピュラ文構造が関与しているのである。私が、コピュラ文のような単純な文と格闘してきたのもそれが言語の説明理論に貢献できると信じているからにほかならない。もちろん、コピュラ文の全貌の解明にはまだまだほど遠い。「単純な文、あなどるなかれ」である。
	西山佑司先生の最新刊
	2008年11月7日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>西山佑司（明海大学教授）</strong></font></p>
	<p>　今から40年以上も前のことであるが、生成文法の考え方が日本でもすこしずつ浸透しはじめた頃、私は、ある高名な言語学者から「チョムスキー派のやっている仕事はThey are flying planes. とかJohn is easy to please. といった単純な文ばかり扱っていてあまり面白くないね。実際の人間の生きた言葉はそんな単純なものではないよ。」と言われたことがある。私はそれを聞いて、なるほど、生成文法に対してそのような誤解もあるのかと驚き、それをヒントにして、当時私が担当していた言語学講座の試験に「上のような見解についてあなたの考えを自由に述べよ」といった課題を出したものである。</p>
	<p>　いうまでもなく、文法学者は、文の文法性や文法構造に関心をもつ。その場合の「文法性」という概念は、文の長さとは無関係である。長大で複雑な文であっても完璧に文法的な文もあれば、簡単な文であっても非文法的な文がある。文の長さや複雑性とは無縁のこの「文法性」を説明するためには壮大な理論が要求される。</p>
	<p>　自然言語の文のなかで、もっとも単純な構文は、「AはBである」(“A is B”) のようなコピュラ文であろう。コピュラ文の動詞「である」(‘is’)は「繋辞」と呼ばれるように、AとBとをつなぐ役割しか果たさず、意味的実質を欠いている、とこれまで考えられてきた。私はこの10数年、コピュラ文に関心をもち研究しているが、一見、単純なこの構文が意味理論的には実に複雑な構文であることがわかってきた。私の研究では、コピュラ文にはすくなくとも6通り以上の意味があること、その多様な意味構造には、A およびBに登場する名詞句の指示性・非指示性という概念が深く関与していることなどが明らかになった。「私は社長だ」、「私が社長だ」、「社長は私だ」、「社長であるのは私だ」の間の微妙な違いを把握するためには「は」と「が」の問題や「分裂文」と呼ばれる強調構文の問題に深く立ち入らざるをえない。そのうえ、コピュラ文の分析は、「Aがある」（存在文）、「Aが変わる」（変化文）、さらには日本語学で議論の多い「象は鼻が長い」構文の構造に対しても、新しい光を投げかけるのである。そればかりでない。「私は犯人を知っている」は「私は［誰ガ犯人デアルか］を知っている」と読むことができるが、この読みにもコピュラ文構造が関与しているのである。私が、コピュラ文のような単純な文と格闘してきたのもそれが言語の説明理論に貢献できると信じているからにほかならない。もちろん、コピュラ文の全貌の解明にはまだまだほど遠い。「単純な文、あなどるなかれ」である。</p>
	<p><strong>西山佑司先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-327-40148-1%20978-4-89476-180-3&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script> </p>
	<p><font color="#999999">2008年11月7日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=119">
	<title>言語学と言語教育：話すのに文法って必要？（Part 2）</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=119</link>
	<dc:date>2008-10-28T11:53:01+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;d&amp;#109;&amp;#105;&amp;#110;&amp;#64;&amp;#103;engosf.c&amp;#111;&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>長谷川信子</dc:subject>	<description>	長谷川信子（神田外語大学教授）
	　最近の大学生に特徴的な英文の間違いに、Tom was riched. Tom is watch television. Tom was studied English. といった、be動詞がどこにでも出てきてしまうといったものがあります。こうした間違いは、以前には余り見られなかったように思います。今後もう少し分析が必要ですが、こうした間違いは「be動詞を日本語の「は」と捉えている」ことによると指摘する人がいます。今の大学生の多くが学んだ中学校英語の教科書は「話すこと」に重きを置き、be動詞は、He is a student. He is tall. He is studying English. など、動詞の区別とは関係なく、内容の観点から必要な表現として比較的初期に導入されていたようです。英語では「主語を必ず述べること」を意識づけされた生徒が、このような、be動詞が頻出する表現を「十分な文法的な説明がなく」初期に次々と導入されれば、日本語の主語には「は」がよく使われますから、be動詞が「は」の役割を持つと「誤って一般化」をすることは不思議ではありません。
	「話すこと」「伝えること」を中心に考えると、動詞や名詞といった「内容語」の習得に意識がいきます。多少、文法を無視しても、単文（まがい）もしくは単語の連続だけでも意味は通じることも多いでしょう。ただ、文法を意識せずに外国語を使えば、できあがるのは「ピジン」です。つまり、内容語は外国語だが、文法的には母語とも外国語ともつかないといった体系です。上記の間違ったbe動詞の使い方は、日本語と英語のピジンとも言えるかもしれません。文法を無視した結果の産物を垣間見ているのかもしれません。
	言語（外国語、英語）を話すことは楽しいです。その楽しさが言語を学ぶ動機にもなるでしょう。ただ、「眼前事象」を超えた、人間の言語が本来持っている「知」を表現する手段としての言語に至ることを目指すなら、文法は避けて通れません。そして、英語の文法（その意味では、どの言語の文法でも）で最も重要なのは、内容的には意味が判然としない（ように思える）、時制や相の表れ方を含めた助動詞の体系、目的節や関係節、副詞節を含めた文の埋め込み、にあり、それが言語に備わっているから、「眼前の事象」を超えた過去や未来のこと、単文では表しきれない複雑な人間の思考・出来事の関係性を表現できるのです。言語がヒトの「知の基盤」たる所以です。
	言語の文法事項にも、話すことに特徴的な事項（日本語の終助詞や、英語の主語と助動詞の倒置などのように主文に特有な現象）と、「知」の表現としてヒトの高度な認知活動を支えるに必要な事項（文の埋め込みや文同士の関連性）と、そのどちらにも必要な事項（文構築、語形成の基本）とで多少異なった構造や文法操作があるのかもしれません。今、私は、その仮説の観点から、特に日本語と英語に言及して研究を進めています。それは、広くは、言語の構造とはどうなっているか、という理論言語学の問いですが、言語は言語使用（情報伝達）といかに繋がっているか、という認知・語用的な問いでもあります。そして、それを、言語（英語）教育においても、ピジンを作らせないために、日本語話者にとって英語を学ぶ際、「最低限必要な文法」とは何か、そこから、より高度な知的表現体系へいかにつなげるか、といった「言語使用の目的にも対応可能な文法」へと応用できる形で発展させられたら、と思ったりしています。
	長谷川信子先生の最新刊
	2008年10月24日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>長谷川信子（神田外語大学教授）</strong></font></p>
	<p>　最近の大学生に特徴的な英文の間違いに、Tom was riched. Tom is watch television. Tom was studied English. といった、be動詞がどこにでも出てきてしまうといったものがあります。こうした間違いは、以前には余り見られなかったように思います。今後もう少し分析が必要ですが、こうした間違いは「be動詞を日本語の「は」と捉えている」ことによると指摘する人がいます。今の大学生の多くが学んだ中学校英語の教科書は「話すこと」に重きを置き、be動詞は、He is a student. He is tall. He is studying English. など、動詞の区別とは関係なく、内容の観点から必要な表現として比較的初期に導入されていたようです。英語では「主語を必ず述べること」を意識づけされた生徒が、このような、be動詞が頻出する表現を「十分な文法的な説明がなく」初期に次々と導入されれば、日本語の主語には「は」がよく使われますから、be動詞が「は」の役割を持つと「誤って一般化」をすることは不思議ではありません。</p>
	<p>「話すこと」「伝えること」を中心に考えると、動詞や名詞といった「内容語」の習得に意識がいきます。多少、文法を無視しても、単文（まがい）もしくは単語の連続だけでも意味は通じることも多いでしょう。ただ、文法を意識せずに外国語を使えば、できあがるのは「ピジン」です。つまり、内容語は外国語だが、文法的には母語とも外国語ともつかないといった体系です。上記の間違ったbe動詞の使い方は、日本語と英語のピジンとも言えるかもしれません。文法を無視した結果の産物を垣間見ているのかもしれません。</p>
	<p>言語（外国語、英語）を話すことは楽しいです。その楽しさが言語を学ぶ動機にもなるでしょう。ただ、「眼前事象」を超えた、人間の言語が本来持っている「知」を表現する手段としての言語に至ることを目指すなら、文法は避けて通れません。そして、英語の文法（その意味では、どの言語の文法でも）で最も重要なのは、内容的には意味が判然としない（ように思える）、時制や相の表れ方を含めた助動詞の体系、目的節や関係節、副詞節を含めた文の埋め込み、にあり、それが言語に備わっているから、「眼前の事象」を超えた過去や未来のこと、単文では表しきれない複雑な人間の思考・出来事の関係性を表現できるのです。言語がヒトの「知の基盤」たる所以です。</p>
	<p>言語の文法事項にも、話すことに特徴的な事項（日本語の終助詞や、英語の主語と助動詞の倒置などのように主文に特有な現象）と、「知」の表現としてヒトの高度な認知活動を支えるに必要な事項（文の埋め込みや文同士の関連性）と、そのどちらにも必要な事項（文構築、語形成の基本）とで多少異なった構造や文法操作があるのかもしれません。今、私は、その仮説の観点から、特に日本語と英語に言及して研究を進めています。それは、広くは、言語の構造とはどうなっているか、という理論言語学の問いですが、言語は言語使用（情報伝達）といかに繋がっているか、という認知・語用的な問いでもあります。そして、それを、言語（英語）教育においても、ピジンを作らせないために、日本語話者にとって英語を学ぶ際、「最低限必要な文法」とは何か、そこから、より高度な知的表現体系へいかにつなげるか、といった「言語使用の目的にも対応可能な文法」へと応用できる形で発展させられたら、と思ったりしています。</p>
	<p><strong>長谷川信子先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-89476-348-7%20978-4-469-21233-4&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script></p>
	<p><font color="#999999">2008年10月24日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=118">
	<title>複数を表す -sの面白さ</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=118</link>
	<dc:date>2008-10-10T10:02:40+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;&amp;#100;mi&amp;#110;&amp;#64;g&amp;#101;ng&amp;#111;&amp;#115;&amp;#102;&amp;#46;co&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>秋元実治</dc:subject>	<description>	秋元実治（青山学院大学教授）
	　英語を習い始めて、日本語にない文法現象として気が付くことは、英語に見られる単数・複数の区別であろう。複数形は単数形に複数接尾辞 -sを付けることにより作られる。ところが、この -sの持つ意味を必ずしもはっきり把握できないことがあるし、それどころか矛盾するような例に多く遭遇することがある： a cross-roads, an alms, a woods。それでは -sの意味をも含めてどのように説明すべきであろうか。以下において、このような一見分かりづらい -sの例を基に、-sの持つ共通の意味を考えてみよう。
	　まず病名に-sの付くものが多い： measles以外にshingles（帯状疱疹）、mumps（おたふく風邪）など。-ingの付く名詞にも -sを付けることが多い: sweepings（ごみ）、findings（発見物）、writings（著作集）、surroundings（環境）など。また変わったところでは、makings（資質）などがある。さらに、beginnings（起源）、beginning（始まり）の区別も注意を要する。
	　挨拶・お礼を言う言い方は複数形で表される: greetings, thanks, congratulations, regards, remembrancesなど。イディオム的表現としては、make amends (for)（償いをする）、I am friends with him, for starters（まず第一に）などで使われる名詞がある。さらに、heights（高地）、depths（深み、奥まった所）などの -sはどうであろうか。
	　また名前に関しては、名は-sを付けないが、姓には -sを付ける： John ? Johns , Adam ? Adams など。
	　以上の例について、-sの共通概念はすべて「二つ以上」というものである。すなわち、病気に関しては、病人と移される人、sweepings（掃除した結果、集まったごみ）、makings（資質を構成するものが幾つかあることをうかがわせる）。挨拶語に関しては、それを発する人と相手がいる。Amendsは分かりにくいが、償う相手を思い起こさせる。For startersは最初に述べることに対して、二番目を予想させる。Heights, depthsは高い所と低い所、深い所と浅い所の対比を感じさせるし、姓に-sが付くのは、家族は何世代にわたっていることのためであると考えられる。なお、a cross-roadsのように一見すると矛盾のように思われるが、道路が交差していれば当然二つ以上の道路を思い浮かべるが、不定冠詞のaはそのような道路を一般化した言い方で、いわば -sの概念を越えた使い方であるといえよう。
	　以上のように考えてみると、-sには顕在化されようが、されまいが、必ず「二つ以上」の意味が存在していることが分かる。またこの概念が、headquartersにおけるよう個々の部分（普通「本部」には司令室＋いくつかの部屋から成っていること)を強調する意味をも付随していることにも注意したい。
	秋元実治先生の最新刊
	2008年10月10日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>秋元実治（青山学院大学教授）</strong></font></p>
	<p>　英語を習い始めて、日本語にない文法現象として気が付くことは、英語に見られる単数・複数の区別であろう。複数形は単数形に複数接尾辞 -sを付けることにより作られる。ところが、この -sの持つ意味を必ずしもはっきり把握できないことがあるし、それどころか矛盾するような例に多く遭遇することがある： a cross-roads, an alms, a woods。それでは -sの意味をも含めてどのように説明すべきであろうか。以下において、このような一見分かりづらい -sの例を基に、-sの持つ共通の意味を考えてみよう。</p>
	<p>　まず病名に-sの付くものが多い： measles以外にshingles（帯状疱疹）、mumps（おたふく風邪）など。-ingの付く名詞にも -sを付けることが多い: sweepings（ごみ）、findings（発見物）、writings（著作集）、surroundings（環境）など。また変わったところでは、makings（資質）などがある。さらに、beginnings（起源）、beginning（始まり）の区別も注意を要する。</p>
	<p>　挨拶・お礼を言う言い方は複数形で表される: greetings, thanks, congratulations, regards, remembrancesなど。イディオム的表現としては、make amends (for)（償いをする）、I am friends with him, for starters（まず第一に）などで使われる名詞がある。さらに、heights（高地）、depths（深み、奥まった所）などの -sはどうであろうか。</p>
	<p>　また名前に関しては、名は-sを付けないが、姓には -sを付ける： John ? Johns , Adam ? Adams など。</p>
	<p>　以上の例について、-sの共通概念はすべて「二つ以上」というものである。すなわち、病気に関しては、病人と移される人、sweepings（掃除した結果、集まったごみ）、makings（資質を構成するものが幾つかあることをうかがわせる）。挨拶語に関しては、それを発する人と相手がいる。Amendsは分かりにくいが、償う相手を思い起こさせる。For startersは最初に述べることに対して、二番目を予想させる。Heights, depthsは高い所と低い所、深い所と浅い所の対比を感じさせるし、姓に-sが付くのは、家族は何世代にわたっていることのためであると考えられる。なお、a cross-roadsのように一見すると矛盾のように思われるが、道路が交差していれば当然二つ以上の道路を思い浮かべるが、不定冠詞のaはそのような道路を一般化した言い方で、いわば -sの概念を越えた使い方であるといえよう。</p>
	<p>　以上のように考えてみると、-sには顕在化されようが、されまいが、必ず「二つ以上」の意味が存在していることが分かる。またこの概念が、headquartersにおけるよう個々の部分（普通「本部」には司令室＋いくつかの部屋から成っていること)を強調する意味をも付随していることにも注意したい。</p>
	<p><strong>秋元実治先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-89476-216-9%20978-4-89476-175-9&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
 BookBox.perform(BookMailClub.search); //<br />
--><br />
</script> </p>
	<p><font color="#999999">2008年10月10日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=117">
	<title>「飲む」とdrinkとSVO</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=117</link>
	<dc:date>2008-09-26T15:11:20+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;dmin&amp;#64;&amp;#103;en&amp;#103;&amp;#111;s&amp;#102;.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>時崎久夫</dc:subject>	<description>	時崎久夫（札幌大学教授）
	　高校２年の国語の授業。先生が僕たち生徒に質問しました。「英語のdrink water, eat soup, take medicine, smoke a cigarette は、日本語ではみな『飲む』という動詞で表せる。水を、スープを、薬を、タバコを、『飲む』と言える。では日本語の『飲む』とはどういう意味だ？」生徒が席順に次々と指名されていきますが誰も答えられません。「田中ぁ、前田ぁ、水野ぉ、…」（あ、もしかしたら …）「時崎ぃ、鈴 …」目立たず、期待されていなかった僕は、通り過ぎられる瞬間に小さな声で答えました。「のどを通す。」「… ん？そうだ、『飲む』とは『のどを通す』ということだ。」先生のこの一言が、僕を言語学へと導いたのでした。
	　気を良くした僕は、授業で紹介された新書『ことばと文化』（鈴木孝夫）をすぐに買って読み、言葉の違いの面白さに引き込まれて、大学で研究者を目指そうと思いました。ちょっと質問に答えられただけだったのに。
	　それから30年。幸いにして、今も言葉の違いを研究して結果を発表しています。最近は、語順と音声の関係について取り組んでいます。例えば英語は I love you という、主語・動詞・目的語の順（SVO）ですが、日本語は「私はあなたを愛する」で、主語・目的語・動詞の順（SOV）です。また、英語は strict のように、１つの母音の前後に子音が多く出てきますが、日本語は「ねこ(neko)」のように、子音・母音・子音・母音 … という形しかありません。英語は音節が複雑な言語、日本語は音節が簡単な言語です。そして、一般に動詞・目的語の語順の言語は音節が複雑で、目的語・動詞の語順の言語は音節が簡単だという仮説が示されており、僕はそれを理論的に説明しようとしています。一見、無関係な語順と音声が実は深い理由で関係していて、世界の言語がすべてそれに従っている。この大きなテーマにロマンを感じて、打ち込んでいます。
	　現在はデータベースも充実して世界の言語の特徴が簡単にわかり、研究がしやすくなりました。言語構造世界地図（The World Atlas of Language Structures）はネットで無料で見ることができます。試しに、http://wals.info/feature/81 と打ち込んで、show map というボタンをクリックして下さい。数秒後に世界中の言語の主語と動詞と目的語の語順が地図上にカラフルに表示されます。さらにいろいろクリックすれば、最新の詳細な研究成果が見られます。
	　本を読んで、データを調べて、また読んで。「飲む」と drink から始まった言葉の違いの研究を、僕はこれからも続けていこうと思っています。
	時崎久夫先生の最新刊
	2008年9月26日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>時崎久夫（札幌大学教授）</strong></font></p>
	<p>　高校２年の国語の授業。先生が僕たち生徒に質問しました。「英語のdrink water, eat soup, take medicine, smoke a cigarette は、日本語ではみな『飲む』という動詞で表せる。水を、スープを、薬を、タバコを、『飲む』と言える。では日本語の『飲む』とはどういう意味だ？」生徒が席順に次々と指名されていきますが誰も答えられません。「田中ぁ、前田ぁ、水野ぉ、…」（あ、もしかしたら …）「時崎ぃ、鈴 …」目立たず、期待されていなかった僕は、通り過ぎられる瞬間に小さな声で答えました。「のどを通す。」「… ん？そうだ、『飲む』とは『のどを通す』ということだ。」先生のこの一言が、僕を言語学へと導いたのでした。</p>
	<p>　気を良くした僕は、授業で紹介された新書『ことばと文化』（鈴木孝夫）をすぐに買って読み、言葉の違いの面白さに引き込まれて、大学で研究者を目指そうと思いました。ちょっと質問に答えられただけだったのに。</p>
	<p>　それから30年。幸いにして、今も言葉の違いを研究して結果を発表しています。最近は、語順と音声の関係について取り組んでいます。例えば英語は I love you という、主語・動詞・目的語の順（SVO）ですが、日本語は「私はあなたを愛する」で、主語・目的語・動詞の順（SOV）です。また、英語は strict のように、１つの母音の前後に子音が多く出てきますが、日本語は「ねこ(neko)」のように、子音・母音・子音・母音 … という形しかありません。英語は音節が複雑な言語、日本語は音節が簡単な言語です。そして、一般に動詞・目的語の語順の言語は音節が複雑で、目的語・動詞の語順の言語は音節が簡単だという仮説が示されており、僕はそれを理論的に説明しようとしています。一見、無関係な語順と音声が実は深い理由で関係していて、世界の言語がすべてそれに従っている。この大きなテーマにロマンを感じて、打ち込んでいます。</p>
	<p>　現在はデータベースも充実して世界の言語の特徴が簡単にわかり、研究がしやすくなりました。言語構造世界地図（The World Atlas of Language Structures）はネットで無料で見ることができます。試しに、http://wals.info/feature/81 と打ち込んで、show map というボタンをクリックして下さい。数秒後に世界中の言語の主語と動詞と目的語の語順が地図上にカラフルに表示されます。さらにいろいろクリックすれば、最新の詳細な研究成果が見られます。</p>
	<p>　本を読んで、データを調べて、また読んで。「飲む」と drink から始まった言葉の違いの研究を、僕はこれからも続けていこうと思っています。</p>
	<p><strong>時崎久夫先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-89476-395-1&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=1"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script></p>
	<p><font color="#999999">2008年9月26日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=116">
	<title>比較の効用</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=116</link>
	<dc:date>2008-09-12T13:17:16+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;&amp;#100;min&amp;#64;g&amp;#101;&amp;#110;go&amp;#115;&amp;#102;.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>原田かづ子</dc:subject>	<description>	原田かづ子（金城学院大学教授）
	　日本語が母語である私たちにとって、日本語は空気のように当たり前であり、特に日本語について考えることは、通常ないと言ってよいでしょう。また、私たちは遅くとも中学生になると、外国語である英語を学び始めます。そのとき、何となく発音が違うなとか、語順が違うなという意識はあるかもしれませんが、意識的に日本語と比較しながら英語を学ぶことはまれで、英語は英語として切り離した形で学んでいるのがふつうではないでしょうか。
	　実は、日本語と英語は対照的な言語です。wh疑問文の例をあげてみましょう。
	（１）　太郎は　本を　買いました。
（２）　太郎は　何を　買いましたか。
（３）　John bought a book.
（４）　What did John buy? 
	　日本語では、平叙文 (1) に対して、何を買ったかわからないときには、(2) のように「本を」の代わりに疑問詞の「何を」を用い、文末に疑問を表す終助詞を付けます。一方、英語では、平叙文 (3) に対して、「a book」の代わりに疑問詞「what」を使うことは同じですが、「what」は「a book」と同じ位置にはなく文頭に移動しています。つまり、日本語では疑問詞の移動がないのに、英語では疑問詞の移動があるのです。その他の構文でも日本語と英語を比較してみると、英語ではいろいろな要素が移動していることがわかります。これまでの研究で、日本語は移動が少ない言語であるのに、英語は移動が多い言語であることがわかっています。
	　日本語では移動が少ないのに、英語では多いという事実は、一つの言語を見ていただけではわかりません。両者を比較して初めてわかります。そして、そのような事実を知ると、次は、なぜそうなのかという新たな疑問が起こります。私自身は、子どもがどのように言語を獲得するのかという課題に関心があるので、移動の有無により獲得に違いがあるのかを調べてみました。その結果、上のwh疑問文については、約3ヶ月日本語を母語とする子どもの方が早く獲得することがわかりました。意味的には、日本語のwh疑問文と英語のwh疑問文には違いがないので、この獲得の時期の違いには、移動の有無がかかわっているらしいことに気づきます。すると、なぜ移動があると獲得が遅くなるのかという新たな疑問が起こります。言語を比較することにより、一つの言語だけを見ていたときには出てこなかったような新たな問が出てきます。このような問に対する答えを求めて日々研究に取り組んでいます。
	原田かづ子先生の最新刊
	2008年9月12日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>原田かづ子（金城学院大学教授）</strong></font></p>
	<p>　日本語が母語である私たちにとって、日本語は空気のように当たり前であり、特に日本語について考えることは、通常ないと言ってよいでしょう。また、私たちは遅くとも中学生になると、外国語である英語を学び始めます。そのとき、何となく発音が違うなとか、語順が違うなという意識はあるかもしれませんが、意識的に日本語と比較しながら英語を学ぶことはまれで、英語は英語として切り離した形で学んでいるのがふつうではないでしょうか。</p>
	<p>　実は、日本語と英語は対照的な言語です。wh疑問文の例をあげてみましょう。</p>
	<p>（１）　太郎は　本を　買いました。<br />
（２）　太郎は　何を　買いましたか。<br />
（３）　John bought a book.<br />
（４）　What did John buy? </p>
	<p>　日本語では、平叙文 (1) に対して、何を買ったかわからないときには、(2) のように「本を」の代わりに疑問詞の「何を」を用い、文末に疑問を表す終助詞を付けます。一方、英語では、平叙文 (3) に対して、「a book」の代わりに疑問詞「what」を使うことは同じですが、「what」は「a book」と同じ位置にはなく文頭に移動しています。つまり、日本語では疑問詞の移動がないのに、英語では疑問詞の移動があるのです。その他の構文でも日本語と英語を比較してみると、英語ではいろいろな要素が移動していることがわかります。これまでの研究で、日本語は移動が少ない言語であるのに、英語は移動が多い言語であることがわかっています。</p>
	<p>　日本語では移動が少ないのに、英語では多いという事実は、一つの言語を見ていただけではわかりません。両者を比較して初めてわかります。そして、そのような事実を知ると、次は、なぜそうなのかという新たな疑問が起こります。私自身は、子どもがどのように言語を獲得するのかという課題に関心があるので、移動の有無により獲得に違いがあるのかを調べてみました。その結果、上のwh疑問文については、約3ヶ月日本語を母語とする子どもの方が早く獲得することがわかりました。意味的には、日本語のwh疑問文と英語のwh疑問文には違いがないので、この獲得の時期の違いには、移動の有無がかかわっているらしいことに気づきます。すると、なぜ移動があると獲得が遅くなるのかという新たな疑問が起こります。言語を比較することにより、一つの言語だけを見ていたときには出てこなかったような新たな問が出てきます。このような問に対する答えを求めて日々研究に取り組んでいます。</p>
	<p><strong>原田かづ子先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-469-21234-1%20978-4-469-21088-0&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script></p>
	<p><font color="#999999">2008年9月12日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=115">
	<title>研究に心ときめく瞬間</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=115</link>
	<dc:date>2008-08-29T18:32:11+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;adm&amp;#105;n&amp;#64;g&amp;#101;&amp;#110;&amp;#103;&amp;#111;&amp;#115;f&amp;#46;c&amp;#111;m&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>戸田貴子</dc:subject>	<description>	戸田貴子（早稲田大学教授）
	授業で「外国語を学習した経験のある人はいますか」と尋ねると、ほぼ全員の手が挙がります。そのあとで「発音がネイティブレベルだと思う人」と言うと、ほとんどの人が手を下げてしまいます。面白いことに、子供はすぐにネイティブのような発音を習得するけれども、大人になってから学習を開始した場合は母語のなまりが残ってしまうという印象を持っている人が多いのです。このような印象の裏付けとなる仮説を「臨界期仮説」と言います。もし、それが真実なら、最初から成人学習者にとってネイティブレベルの発音習得は不可能ということになるでしょう。
	私の最近の研究テーマは、日本語を学習する外国人にとって「大人になってからでもネイティブレベルの発音習得は可能か」ということです。調査の結果、確かに学習開始年齢は発音習得度と相関がありますが、大人になってから学習を開始した場合でも、ネイティブレベルの発音習得を達成した学習者が少なからず存在することが明らかになりました。このような発音の達人（＝学習成功者）の意識や学習方法には、多くの共通点がありました。特に、その学習方法は、外国語を学習する人には大変参考になるものです。
	世間には多くの通説があります。通説には実証的な裏付けがなくても、経験的に納得がいくことが多いようです。さらに多くの人々が通説を支持し、それが語り継がれれば、「定説」になることすらあります。しかし、体系的な調査を実施し、分析を進めていくと、印象論だけでは把握しきれなかった新たな側面が次々と見えてきます。それが、まさに研究に心ときめく瞬間です。また、大学院で研究指導をしていて、院生が各自の研究テーマに沿って研究を進めていく過程で、満足感と達成感に満ち溢れた表情を見せることがあります。そのようなとき、私はオーストラリアに留学していた頃を懐かしく思い出します。
	私と言語学との出会いは、オーストラリア国立大学に学部生として入学したのがきっかけでした。大学の教授や先輩たちが、精力的にフィールドを駆け回り、原住民アボリジニの言語データを収集し、分析する姿に感銘を受けました。1980年代には日本経済の発展とともに、日本語を学ぶ学生が激増し、オーストラリア国立大学で講師として教鞭を取る機会を与えられました。日本語を教え始めて、母語話者にはごく簡単な発音が学習者には大変難しいということが分かり、それらがなぜ難しいのか、学習者の発音の実態はどのようになっているのか、どのように教えて練習すればよいのかと考えるようになりました。このような疑問が自然に研究課題となり、研究成果は日本語発音練習教材になりました。
	「死に絶えていく運命にある原住民の言語を記述し、言語文化の継承のために役立てたい」、「音声習得研究の成果を発音指導に生かし、日本語教育に還元したい」というように、言語研究にはさまざまな目的がありますが、どのような研究でも明確な目的意識に基づいている限り、社会に貢献ができるのではないかと思います。
	戸田貴子先生の最新刊
	2008年8月29日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>戸田貴子（早稲田大学教授）</strong></font></p>
	<p>授業で「外国語を学習した経験のある人はいますか」と尋ねると、ほぼ全員の手が挙がります。そのあとで「発音がネイティブレベルだと思う人」と言うと、ほとんどの人が手を下げてしまいます。面白いことに、子供はすぐにネイティブのような発音を習得するけれども、大人になってから学習を開始した場合は母語のなまりが残ってしまうという印象を持っている人が多いのです。このような印象の裏付けとなる仮説を「臨界期仮説」と言います。もし、それが真実なら、最初から成人学習者にとってネイティブレベルの発音習得は不可能ということになるでしょう。</p>
	<p>私の最近の研究テーマは、日本語を学習する外国人にとって「大人になってからでもネイティブレベルの発音習得は可能か」ということです。調査の結果、確かに学習開始年齢は発音習得度と相関がありますが、大人になってから学習を開始した場合でも、ネイティブレベルの発音習得を達成した学習者が少なからず存在することが明らかになりました。このような発音の達人（＝学習成功者）の意識や学習方法には、多くの共通点がありました。特に、その学習方法は、外国語を学習する人には大変参考になるものです。</p>
	<p>世間には多くの通説があります。通説には実証的な裏付けがなくても、経験的に納得がいくことが多いようです。さらに多くの人々が通説を支持し、それが語り継がれれば、「定説」になることすらあります。しかし、体系的な調査を実施し、分析を進めていくと、印象論だけでは把握しきれなかった新たな側面が次々と見えてきます。それが、まさに研究に心ときめく瞬間です。また、大学院で研究指導をしていて、院生が各自の研究テーマに沿って研究を進めていく過程で、満足感と達成感に満ち溢れた表情を見せることがあります。そのようなとき、私はオーストラリアに留学していた頃を懐かしく思い出します。</p>
	<p>私と言語学との出会いは、オーストラリア国立大学に学部生として入学したのがきっかけでした。大学の教授や先輩たちが、精力的にフィールドを駆け回り、原住民アボリジニの言語データを収集し、分析する姿に感銘を受けました。1980年代には日本経済の発展とともに、日本語を学ぶ学生が激増し、オーストラリア国立大学で講師として教鞭を取る機会を与えられました。日本語を教え始めて、母語話者にはごく簡単な発音が学習者には大変難しいということが分かり、それらがなぜ難しいのか、学習者の発音の実態はどのようになっているのか、どのように教えて練習すればよいのかと考えるようになりました。このような疑問が自然に研究課題となり、研究成果は日本語発音練習教材になりました。</p>
	<p>「死に絶えていく運命にある原住民の言語を記述し、言語文化の継承のために役立てたい」、「音声習得研究の成果を発音指導に生かし、日本語教育に還元したい」というように、言語研究にはさまざまな目的がありますが、どのような研究でも明確な目的意識に基づいている限り、社会に貢献ができるのではないかと思います。</p>
	<p><strong>戸田貴子先生の最新刊</strong></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript"  src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;author=%8C%CB%93c%8BM%8Eq&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script></p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script></p>
	<p><font color="#999999">2008年8月29日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=114">
	<title>言語学と言語教育：話すのに文法って必要？（Part 1）</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=114</link>
	<dc:date>2008-08-15T12:24:44+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;&amp;#100;mi&amp;#110;&amp;#64;&amp;#103;&amp;#101;&amp;#110;gosf.com&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>長谷川信子</dc:subject>	<description>	長谷川信子（神田外語大学教授）
	　30歳以上の人（ですから、ほとんどの教員）にとっては外国語（英語）を学ぶことの大きな部分は「文法を学ぶこと」だったことでしょう。それが、ここ10年位の間に（具体的には、学習指導要領の改訂と関連して）「外国語を学ぶこと」イコール「外国語使うこと・話せるようになること」というようにシフトしてきています。実際、「文法訳読法」により英語を学んだ私も、大学で初めてネイティブの先生の授業があって、そこで「英語が通じた」ことから来る感激は、テストで良い点を取ることとは全く次元の異なる楽しさ・嬉しさでした。
	　文科省は、2011年から全国の公立小学校でも小学校５，６年生に「正課」として英語を導入する方針を打ち出しました。そして、すでに多くの小学校で英語は何らかの形で導入されています。そうした英語の導入の特徴は（そして、最近の中学校での教科書も大体同じような観点が打ち出されていますが）「英語を使う場面の設定」に従って必要な語彙と表現を導入すること（いわゆる、コミュニカティブ・アプローチ）で、場面に関係なく「文法」を教えることはしない、という方針が貫かれています。つまり、英語を使うことの楽しさから入り、文法は二の次、というわけです。
	　話は飛びますが、私は、日本の大学へ戻って来る前に、アメリカの大学で日本語を教え、年度を違えて全く異なるアプローチで日本語を導入した経験を持っています。一つは、いわゆる「文法訳読法」に近いもので、「あなたは何を食べますか」「私はお寿司を食べます」など、省略が多い日本語では実際にはほとんどその通りには言わないような、しかし文法規則に則った表現を、英語への訳読を意識して導入する方法。もう一つは、話すことを中心に、終助詞の「よ、ね、か」を使って、「食べますか」「食べますね」「食べますよ」など、主語や目的語を省いても会話として成り立つ表現から教え、単語が足りないなら「studyしますか」のような英語を交えることも許すという導入法です。その結果、1年後には、全く異なるタイプの学生が育ちました。前者の学生は、文法に意識が集中するせいか「話すことは苦手」、でも、作文や読解へはスムーズに移行してくれました。後者の学生は、たった１ヶ月余りで、電話で話すことも怖がらない、文法の授業でも、とにかく日本語でチャレンジしてみる、という「話すのが大好き」な学生となりました。ただ、彼らは、2年次、3年次で、新聞などを読む、高度な作文を書く、という課題に対応するためには、その時点でかなり意識的・体系的に文法を学び直すことが必要でした。
	　さて、日本での英語教育、教師は、どのような学生を育てたいのでしょう？ そして、学生は、どのような英語の使い手になりたいのでしょう？ Part 2では、英語教育と文法、言語学の観点から、この問いを考えてみたいと思います。 
	長谷川信子先生の最新刊
	2008年8月15日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>長谷川信子（神田外語大学教授）</strong></font></p>
	<p>　30歳以上の人（ですから、ほとんどの教員）にとっては外国語（英語）を学ぶことの大きな部分は「文法を学ぶこと」だったことでしょう。それが、ここ10年位の間に（具体的には、学習指導要領の改訂と関連して）「外国語を学ぶこと」イコール「外国語使うこと・話せるようになること」というようにシフトしてきています。実際、「文法訳読法」により英語を学んだ私も、大学で初めてネイティブの先生の授業があって、そこで「英語が通じた」ことから来る感激は、テストで良い点を取ることとは全く次元の異なる楽しさ・嬉しさでした。</p>
	<p>　文科省は、2011年から全国の公立小学校でも小学校５，６年生に「正課」として英語を導入する方針を打ち出しました。そして、すでに多くの小学校で英語は何らかの形で導入されています。そうした英語の導入の特徴は（そして、最近の中学校での教科書も大体同じような観点が打ち出されていますが）「英語を使う場面の設定」に従って必要な語彙と表現を導入すること（いわゆる、コミュニカティブ・アプローチ）で、場面に関係なく「文法」を教えることはしない、という方針が貫かれています。つまり、英語を使うことの楽しさから入り、文法は二の次、というわけです。</p>
	<p>　話は飛びますが、私は、日本の大学へ戻って来る前に、アメリカの大学で日本語を教え、年度を違えて全く異なるアプローチで日本語を導入した経験を持っています。一つは、いわゆる「文法訳読法」に近いもので、「あなたは何を食べますか」「私はお寿司を食べます」など、省略が多い日本語では実際にはほとんどその通りには言わないような、しかし文法規則に則った表現を、英語への訳読を意識して導入する方法。もう一つは、話すことを中心に、終助詞の「よ、ね、か」を使って、「食べますか」「食べますね」「食べますよ」など、主語や目的語を省いても会話として成り立つ表現から教え、単語が足りないなら「studyしますか」のような英語を交えることも許すという導入法です。その結果、1年後には、全く異なるタイプの学生が育ちました。前者の学生は、文法に意識が集中するせいか「話すことは苦手」、でも、作文や読解へはスムーズに移行してくれました。後者の学生は、たった１ヶ月余りで、電話で話すことも怖がらない、文法の授業でも、とにかく日本語でチャレンジしてみる、という「話すのが大好き」な学生となりました。ただ、彼らは、2年次、3年次で、新聞などを読む、高度な作文を書く、という課題に対応するためには、その時点でかなり意識的・体系的に文法を学び直すことが必要でした。</p>
	<p>　さて、日本での英語教育、教師は、どのような学生を育てたいのでしょう？ そして、学生は、どのような英語の使い手になりたいのでしょう？ Part 2では、英語教育と文法、言語学の観点から、この問いを考えてみたいと思います。 </p>
	<p><B>長谷川信子先生の最新刊</B></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-89476-348-7%20978-4-469-21233-4&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script> </p>
	<p><font color="#999999">2008年8月15日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=113">
	<title>“物には名前があること”を知ってから</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=113</link>
	<dc:date>2008-08-04T10:34:40+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;&amp;#97;&amp;#100;m&amp;#105;n&amp;#64;&amp;#103;e&amp;#110;g&amp;#111;s&amp;#102;&amp;#46;com&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>前田富祺</dc:subject>	<description>	前田富祺（大阪大学名誉教授）
	　私は小さいころから身のまわりの物を集めることが好きだった。建具屋へ行っては木っ端を集めて、仕事場の片隅で遊んでいた。河原へ行っては石を拾い、山へ行っては草や虫を集め、それらを玩具にして遊んでいた。
	　小学校から中学校にかけて集める物の範囲はいっそう広まった。同級生の集めていた切手にも興味を持ったが、むしろ自転車に乗って遠くへ出かけてアイヌの矢尻や石器を集めることに熱中した。それとともに、学校の植物標本や鉱物標本を見て集めるだけではなく分類することが大事であることを知ったのである。しかし、学校の標本にはみな名前が付けられているが、自分の集めた物の名前を知ることはなかなか難しい。物と物とを比較し違っているところと似ているところとを見分け図鑑で調べる。こうして“分ける”ことは“分かる”ことであることを知り、“物には名前がある”ことを痛感したのである。
	　“名前がある”ということは“名前を付けた人がいる”ということでもある。私の生まれ育った富良野は北海道の中央でアイヌ語の地名が多い。新聞などに載っている地名の語源説明をノートに記してみると、片仮名で表わされたものも漢字で書かれたものもあった。もちろん、漢字で書かれているものでもアイヌ語でないものもあった。また漢字で書かれたアイヌ語にはどうしてそのように読むのか分からないものもあった。次々といろいろな疑問が出てきたのである。
	　高校に入って生物部に入り、植物採集に熱中し特に蘚苔類の分類を始めた。こうして、いろいろな分野において物を分類し名前を知る場合の方法について考えることが多くなったのである。このようないろいろなことへの関心は語史研究から語彙研究へと進む出発点となった。
　こうしていろいろな語の語史研究から語彙の体系を考えながら語彙史として考えるに至ったのである。物の体系に対する意識は時代とともに変わってくる。新しい物が生まれ古い物が消えてゆく。しかし、語形には変わらない部分もある。最近はそのような歴史的・社会的背景をも考えながら衣食住の語彙史を考えたいと思っている。
	前田富祺先生の最新刊
	2008年8月1日 掲載 
 </description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>前田富祺（大阪大学名誉教授）</strong></font></p>
	<p>　私は小さいころから身のまわりの物を集めることが好きだった。建具屋へ行っては木っ端を集めて、仕事場の片隅で遊んでいた。河原へ行っては石を拾い、山へ行っては草や虫を集め、それらを玩具にして遊んでいた。</p>
	<p>　小学校から中学校にかけて集める物の範囲はいっそう広まった。同級生の集めていた切手にも興味を持ったが、むしろ自転車に乗って遠くへ出かけてアイヌの矢尻や石器を集めることに熱中した。それとともに、学校の植物標本や鉱物標本を見て集めるだけではなく分類することが大事であることを知ったのである。しかし、学校の標本にはみな名前が付けられているが、自分の集めた物の名前を知ることはなかなか難しい。物と物とを比較し違っているところと似ているところとを見分け図鑑で調べる。こうして“分ける”ことは“分かる”ことであることを知り、“物には名前がある”ことを痛感したのである。</p>
	<p>　“名前がある”ということは“名前を付けた人がいる”ということでもある。私の生まれ育った富良野は北海道の中央でアイヌ語の地名が多い。新聞などに載っている地名の語源説明をノートに記してみると、片仮名で表わされたものも漢字で書かれたものもあった。もちろん、漢字で書かれているものでもアイヌ語でないものもあった。また漢字で書かれたアイヌ語にはどうしてそのように読むのか分からないものもあった。次々といろいろな疑問が出てきたのである。</p>
	<p>　高校に入って生物部に入り、植物採集に熱中し特に蘚苔類の分類を始めた。こうして、いろいろな分野において物を分類し名前を知る場合の方法について考えることが多くなったのである。このようないろいろなことへの関心は語史研究から語彙研究へと進む出発点となった。<br />
　こうしていろいろな語の語史研究から語彙の体系を考えながら語彙史として考えるに至ったのである。物の体系に対する意識は時代とともに変わってくる。新しい物が生まれ古い物が消えてゆく。しかし、語形には変わらない部分もある。最近はそのような歴史的・社会的背景をも考えながら衣食住の語彙史を考えたいと思っている。</p>
	<p><B>前田富祺先生の最新刊</B></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-09-501181-3%20978-4-625-60306-8&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
 BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
 // --><br />
</script> </p>
	<p><font color="#999999">2008年8月1日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
<item rdf:about="http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=112">
	<title>形式と解釈のインターフェース</title>
	<link>http://www.gengosf.com/dir_x/modules/wordpress/index.php?p=112</link>
	<dc:date>2008-07-22T11:43:19+09:00</dc:date>
	<dc:creator>root &lt;admi&amp;#110;&amp;#64;&amp;#103;&amp;#101;ng&amp;#111;sf.c&amp;#111;&amp;#109;&gt;</dc:creator>
	
	<dc:subject>金子義明</dc:subject>	<description>	金子義明（東北大学教授）
	　言葉には、語順をはじめとする文の形式上の特性と意味解釈がからみあう現象が、数多く存在します。例えば、次の現在完了形の文には二つの解釈が存在します。
	（１） John has lived in Boston for five years.
	文末の前置詞句for five yearsは「5年間」という期間を表します。一つの解釈では、「5年間」は過去の不特定の期間を表し、「過去のある5年間にボストンに住んだ（ことがある）」と解釈されます（経験の解釈）。もう一方の解釈では、現在時点を期間の一端（この場合、終端）とする「5年間」を表し、「ボストンに住んで（現在まで）5年になる」と解釈されます（継続の解釈）。
　このように「for + 名詞句」で期間を表す前置詞句には、特定の時点によって期間が特定される「特定的解釈」と、特定されない「非特定的解釈」が存在します。ところが、前置詞句が文頭に置かれると、特定的解釈のみが存在し、多義性が消失します。
	（２） For five years Martha has lived in Boston.
	文頭のfor five yearsは、現在時点までの5年間の解釈（継続の解釈）のみが可能です。
　さらに、前置詞句の位置は、「結果」の読みにも影響を与えます。
	（３） A:　 We need someone who remembers where that restaurant is.
　　　　　　Anyone who has lived in London for five years or longer
　　　　　　would remember it.
　　　 B:　 Mary has lived in ...</description>
	<content:encoded><![CDATA[<p align="right"><font size="3" color="#999933"><strong>金子義明（東北大学教授）</strong></font></p>
	<p>　言葉には、語順をはじめとする文の形式上の特性と意味解釈がからみあう現象が、数多く存在します。例えば、次の現在完了形の文には二つの解釈が存在します。</p>
	<p>（１） John has lived in Boston for five years.</p>
	<p>文末の前置詞句for five yearsは「5年間」という期間を表します。一つの解釈では、「5年間」は過去の不特定の期間を表し、「過去のある5年間にボストンに住んだ（ことがある）」と解釈されます（経験の解釈）。もう一方の解釈では、現在時点を期間の一端（この場合、終端）とする「5年間」を表し、「ボストンに住んで（現在まで）5年になる」と解釈されます（継続の解釈）。<br />
　このように「for + 名詞句」で期間を表す前置詞句には、特定の時点によって期間が特定される「特定的解釈」と、特定されない「非特定的解釈」が存在します。ところが、前置詞句が文頭に置かれると、特定的解釈のみが存在し、多義性が消失します。</p>
	<p>（２） For five years Martha has lived in Boston.</p>
	<p>文頭のfor five yearsは、現在時点までの5年間の解釈（継続の解釈）のみが可能です。<br />
　さらに、前置詞句の位置は、「結果」の読みにも影響を与えます。</p>
	<p>（３） A:　 We need someone who remembers where that restaurant is.<br />
　　　　　　Anyone who has lived in London for five years or longer<br />
　　　　　　would remember it.<br />
　　　 B:　 Mary has lived in London for five years.<br />
　　　 B&#8217;:　For five years, Mary has lived in London.</p>
	<p>　この会話で、話者Aは、ロンドンに住んで（現在までに）5年以上となり、その結果、問題のレストランの場所を記憶している人を探しています。BとB´の返答は、いずれも継続の解釈が可能です（特にB´は継続の解釈のみ）。しかし、前置詞句が文頭に生起しているB´の文には、5年以上継続して住んでいる結果としてレストランの場所を記憶しているという読みが許されず、Aの質問に対する返答としては不適切となります。</p>
	<p>　このように、文の形式と解釈が影響を及ぼしあう現象を、統語論・意味論インターフェース現象と呼びますが、このような現象が生ずる要因を解きほぐして、そのメカニズムを解明していくのも英語学・言語学研究の重要なテーマであり、精力的に研究が進められています。</p>
	<p><B>金子義明先生の最新刊</B></p>
	<div id="box"></div>
	<p><script type="text/javascript" src="http://www.bookmailclub.com/bmc/reader/book_box/?type=search&#038;target=box&#038;enc=euc&#038;isbn_code=978-4-7589-2139-8%20978-4-327-40129-0&#038;use_search=1&#038;side=1&#038;limit=2"><br />
</script> </p>
	<p><script type="text/javascript"><br />
<!--<br />
BookBox.perform(BookMailClub.search);<br />
// --><br />
</script> </p>
	<p><font color="#999999">2008年7月18日 掲載</font></p>]]></content:encoded>
</item>
</rdf:RDF>